マインドからハートへ、子供の様になって神の王国に入るby 和尚

マインドからハートへ、子供のようになって神の王国に入る by 和尚

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(ディヴァインと交流する男の子、その後この子は神の王国へ)

ここ最近、毎週日曜日13時半から行われているシュリ・バガヴァンとの瞑想のやり方が変わっています。

それまでは、パドカや仏像、聖者らの写真など聖なるグッズに触りながら瞑想をするというものでしたが、現在はハートの中心に光の点をイメージし、呼吸とともにその中心点が拡大したり、光り輝きながら自己と地球を包み込むというイメージの瞑想になっています。

この瞑想法は、アナハタ・チャクラ(胸の中心にあるエネルギーセンター)を活性化させ、根深いストレス(ヴァサナ)を解消し、ハートに対する気づきを高めます。

ハートの目覚めは、神実現(顕現神との合一)に不可欠です。

何故なら神は私たちのハートの本質である慈悲であり、愛だからです。

つまり、神は私たちと分離した存在ではなく、私たちの本質でありハイアーセルフであり、私たちの真我(パラ・アートマ)以外の何者でもありません。

現在私たちはこの神と分離した感覚になっている為に、本来あるべき姿に戻す為にシュリ・バガヴァンは様々な方法を駆使されています。

伝統的なヨーガであるラージャ・ヨーガやハタ・ヨーガ、クンダリーニ・ヨーガ、バクティ・ヨーガなど様々な技法が使われています。


セイクレッド・チェンバー(聖なる部屋)に参加、やっぱりこれは・・・!!

そして、最近半年前位から新たにセイクレッド・チェンバー(聖なる部屋)なるプログラムか始まっていると聞き、先日(7月3日)参加してきました。

開催されたコースは現在、インドで開かれるコースの通訳をされており、TM瞑想時代からの私の古くからの友人のSさんのご自宅です。

コースの内容は、3つの部屋に入っていって、そこで私たちのディヴァインと対面し、会話したり、健康やお願い事を聞いてもらったり、疑問に答えてもらったり、感謝したり、賛美したりするというものです。

これは、まさしくバクティ・ヨーガです。

私は、ディヴァインに感謝を捧げ、とにかく早くエンライトさせてください、と祈りました。

その後、どのように変わったか?確かに覚醒が深まったように感じます。

前述のハート・チャクラに対する瞑想効果と相俟って、ハートに対する気づきが大変高まっていることがはっきり分かります。

それまでは、意識の中心が頭の方に偏っていたものが、ハートの方に重心が移動しています。

今までとは、比べものにならない位、思考が沸きません。

それもそのはずで、マインド(思考)よりハートの方が意識の深い層にあるからです。


心底を、表現不可能なほどに澄みわたらせ、それを、ハートの上方、下方、そして中に置く
― シヴァ


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「ヴィギャン・バイラヴ・タントラ」という経典があります。

シヴァ(神)が、愛人デヴィの質問に答えるという形で様々なタントラの技法が紹介されており、数千年前の経典とのことです。

この「ヴィギャン・バイラヴ・タントラ」を題材にオショー・ラジニーシが講話したものが、日本語にも訳されていて全十巻か出版されています。

その中の一つに「生の神秘」というタイトルの本があり、その中にこのハートの覚醒に関する大変重要な記述がありましたので紹介させて頂きます。

(以下、「生の神秘」市民出版社、田中ぱるば訳より抜粋転載)

それでは、第一の技法。

心底を、表現不可能なほどに澄みわたらせ、それを、ハートの上方、下方、そして中に置く。

理解すべきことが三つある。ひとつ。

もし知識が必要だったら頭が中心となる。

いっぽうもし子供のような無垢が重要だったら、ハートが中心となる。子供はハートに住むが、私たちは頭に住む。子供は感じるが、私たちは考える。

あなたは「感じている」と言うかもしれないが、それは「感じている」と思っているだけだ。

私たちにとっては、思考が第一となり、感じは二番目となっている。

思考は科学の道具であり、感じることは宗教の道具だ。必要なのは再び感じる存在になることだ。

思考と感じることは次元が違っている。考えるとき、あなたは分離したままだ。感じるとき、あなたは溶けて行く。

たとえば、バラの花について考える。考えるときには分離がある。― 隙間(ギャップ)があり、距離があり、空間がある。

考えるためには空間が必要だ。思考が働くためには距離が必要だ。

でも花を感じれば、その隙間は消え失せる。距離はなくなる。感覚にとって距離は障害だ。

近づけば近づくほど、もっと感じられるようになる。やがて「近さ」さえも一種の距離に感じられるようになる。そのとき溶解が起こる。

するともはや、自分と花との間の境界が感じられなくなる。

自分がどこで終わり、花がどこから始まるのかわからなくなる。境界線は互いの中に消え去る。

ある意味で、花はあなたの中に入り、あなたは花の中にはいる。

感じることは境界を消し去り、思考は境界を生み出す。だからこそ思考はつねに定義を要求するのだ。

(以下、途中省略)

心(マインド)とは、頭の活動、思考、想念を意味する。

そして、心底(マインド・スタッフ)とは、その背景となるものだ。その上に思考が浮かんでいる。

ちょうど空を雲が動くようなものだ。思考の雲が空を背景に動く。

その空、つまり意識が、「心底」と呼ばれている。心は思考なしでも存在できる。

するとそれは「チット」、つまり純粋な心となる。でも思考があるときには、不純な心だ。

心に思考がなくなったら、それはじつに繊細微妙なものになる。およそ存在するもののうちでもっとも微妙なものだ。

それより微妙なものは想像もできない。意識とはもっとも繊細微妙なものだ。

心に何の思考もないとき、それは純粋な心だ。この純粋な心は、ハートに向かって進むことができる。

不純な心は、ハートに向かって進めない。

私の言う「不純」とは、「心の中に不道徳な思考がある」ということではない。不純なのは思考すべてだ。思考それ自体が不純だ。

(以下、途中省略)

つまりこういうことだ。思考があると、あなたは頭にしがみつく。

思考とは根だ。そういう根が断たれないかぎり、ハートに退くことはできない。

子供がハートにとどまっていられるのも、思考が結晶化するまでのことだ―思考が心の中に溢れだすまでのことだ。

以降、思考は根を張り出す。教育や文化といったものによって、思考は根づいていく。

そして少しずつ、意識はハートから頭へと動いていく。

意識が頭の中にとどまるのは、思考が存在するときだけだ。それが基本だ。

思考がなくなると、意識はたちまちハートの中の本来の無垢に戻る。

それゆえ、瞑想がこれほど強調されるのだ―無思考、無想念の意識、無選択の意識が強調されるのだ。

あるいはブッダの言う正念、「何の想念もなくひたすら気づいていること」が強調されるのだ。

すると何が起こるのか。たいへんな現象が起こる。

根が断たれるので、たちまち意識がハートに落ちる―元々の場所へだ。再び子供となる。

イエスいわく、「子供のような者だけが、わが神の王国に入る」。

彼の語っていたのは、意識がハートに戻った人間のことだ。そのような人間は、無垢になり、子供のようになっている。

しかしまず最初に必要なのは、心底を、表現不能なほどに澄みわたらせ・・・だ。

(以上、抜粋転載終わり)


ドゥッカを愛の炎(光)で焼き尽くす

これまで、苦しみから解放される為の方法として、日常生活で沸いてきた感情を逃げないで体験する、味わう、ということを何回も書いてきました。

日常生活で主に対人関係から生じる怒り、妬み、嫉み、恐れ、不安、憎しみなどを徹底的に見る、味わうことで、怒りなど否定的なエネルギーは、慈悲や至福のエネルギーに変換し、そのことが更に意識を覚醒させてゆく、と書いてきました。

感情は否定的なものであってもある種強いエネルギーを持っていますから、それを変換させることで、意識の覚醒に極めて大きな作用があるのです。

ところが、ある程度覚醒が深まってくるとこのような怒りや恐れなどの感情体験は、滅多に起きなくなってきます。

良く言えば、純粋意識が定着し、その結果不動心が培われ、精神が安定してきていると言えます。

そうすると、それら感情と向き合うことが少なくなってくるのではないでしょうか。

しかし、それでもそこに感情はあります。

漠然とした形でそこにはある種の感情が存在しています。それを私たちは通常気分などと呼んでいます。

朝起きた瞬間からそれはあります。爽やかな、軽やかな気分、欝っぽい重い気分等など。夜夢を見ている間中にも感情は存在しています。

しかし、この漠然とした感情、気分を味わうということが、中々難しいのです。

その気分は、幸福感というものでもなく、かといって苦しいとか悲しいとかいう感覚でもなく、あまりに当たり前のごとく常にそこにあり、昔から体験していると思われるものだからです。

それらは、外側の経験によってもたらされる感情ではありません。外側の事象は関係ないのです。

実は、この感覚こそが、存在の悲しみ・苦しみ、仏陀がドゥッカと呼んだものなのではないでしょうか。

悟りを開く上での最後の障壁と言えるものです。

絶対の至福である真我に到達することを妨げている最も根深い所にあるヴァサナです。(ヴァサナについては、「何万回の輪廻をもたらす人生の束縛者、ヴァサナとは?」をご参照下さい)

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上の図は、その辺を分かり易くする為にイメージとして描いた図です。(円の一番外側には、現象世界があって、五感を通して知覚し、更にここには書いていませんが、マインドでジャッジしたり、知性を働かせ、行動しています。)

円の中心に絶対状態、非顕現の神ブラフマン(大我)が存在し、そこからこの宇宙の創造主であり、管理者でもある顕現神が生まれます。

顕現神と人との間に分離感を作り出しているのが、エゴ。(オレンジの線)

その分離感から存在の苦しみが生まれ、そこから様々な感情が生じたのではないでしょうか?

ドゥッカがそこにある限り、それに付随する欲望、執着、思考・雑念は、消えてなくなることはありません。

最終的に、ドゥッカは焼き尽くされなければなりません。

そのドゥッカが焼き尽くされた時初めて、人は時空を超えた永遠の至福の境地、真我に確立されます。

存在の悲しみ・苦しみといっても、人によって苦しみの種類、濃淡、出方が微妙に違います。

ホイットニーの死をバガヴァンの教えから考察する」に書いたように、ホイットニー・ヒューストンのような成功者らには虚無感のような形で顕れるかもしれません。

覚醒が進んだ人々には、おそらく、えっ、これが悲しみ、苦しみ!?と思われる位、この悲しみ・苦しみの感覚が薄まっているかもしれません。

しかし、どちらにしてもそれらは楽しい感覚や幸福な感覚ではなく、虚しい感覚、憂いを帯びた感覚、恐れの或は不安な感覚、退屈な感覚などです。

覚醒が進んだ人々でさえ、その気分は、怒りや恐怖などの感情と比較して、あまりにも微妙で漠然としているので、その感覚に面と向き合うことなく、その気分から逃避する為の行動をとっているのではないでしょうか。

パソコン、スマートフォーン、友人との会話、日常生活におけるそれら気分を紛らわす為の様々な行動、思考等など。

しかし、いつまでもこのドゥッカから逃げていては、悟りを開くことはできません。いずれ向き合わなくてはならないものです。

それでは、どうしたらこの悟りにとっての最終的障壁ドゥッカを焼き尽くすことができるでしょうか?

それは、言うまでも無く、それらを見ることです。その時、アグニの炎(光)が燃え立ち、ヴァサナは焼き尽くされてゆきます。

それによって一瞬ごとにそれらの気分は変化して行くかもしれませんが、徹底的にそれらの気分を味わうのです。

いづれ、それらの気分は透明な感覚、更に至福に変わってゆくことでしょう。雑念も完全に消え、その至福が失なわれなくなった時が悟りです。

しかし、前述の通り、気分を見ることは大変難しいのです。

先ずは、現在日曜午後1時半、バガヴァンと一緒にハートに意識を向けて前述のように瞑想します。(バガヴァンとの瞑想は、こちらのサイト等からお入り下さい。Ett Med Livet)

この時に、バガヴァンの手助けもあって、ハートが活性化し、ヴァサナも溶解し、容易に見れるようになってゆくでしょう。

そして、日常生活においては、シヴァが言うように「心底を、表現不可能なほどに澄みわたらせ、それを、ハートの上方、下方、そして中に置く」ようにします。

日常生活で、ハートに注意を向け易い行為というのがあります。瞑想と散歩です。

その為には、ハートへの注意を逸らすパソコンやスマートフォン、テレビ、映画など気分を紛らわせる行動を止めます。

そして、無思考状態になり、その状態で意識、或は注意を心臓の周辺一帯に向けます。

この技法は、ある程度無思考状態になれる人でないと難しいかもしれませんが、可能な限りハートに注意を向けることを試して見るべきです。

超スピードで思考から解放されてゆくでしょう。

そして、私たちは再び子供のようになって、神の王国(サティヤ・ローカ)へ入ります。

スペイン映画 「汚れなき悪戯」より「マルセリーノの歌」 .



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プロフィール

三休さん

Author:三休さん
のブログへようこそ!

昭和28年東京都江戸川区  小松川の生まれ

都電の西荒川駅前にあ
った生家には、故赤塚不二
夫さんが下宿していました。

上の写真は、昭和30年5月石森章太郎さんが赤塚さんを訪ねてきた時のもの。

赤塚さんは、その2年後有名なトキワ荘に引越しました。

徒歩数分の石毛肉店には、私と一緒に住んでいた従姉と同じ深川高校に通う五月みどりがいて、この翌年に歌手デビュー。

生家の2軒隣にその数年後、横綱柏戸が引越してきました。

私は、その後両親が近所に建てた家に引越したのですが、3軒隣にラグビー日本代表だったターザン橋本(本名橋本晋一)氏が住んでいて息子が私と同級生。

息子H君はその後早稲田ラグビー部の主将。

私が小中学校時代に通ったラグビースクールで一緒にプレーした新日鉄釜石7連覇の立役者Mr.ラグビーと言われた松尾雄治君とその後早明戦で戦ったのには驚きました。

私も高校でラグビー部に入ったのですが、挫折。結局それが遠因で、精神世界に。

そして今に至るのですが、何が幸いするか分かりません。

もし、そのままラグビーを続けていれば、何がしかの世界で成功したかもしれませんが、失敗の人生を歩んでいた可能性があります。

真の意味での成功者とは、永遠不滅の至福の境地である「悟り」に達した人々のことであり、そこに向かって着実に前進している人々のことを言います。

(「悟り」「真の成功者」に関して詳細は、本ブログ記事「ホイットニーの死をバガヴァンの教えから考察する」等をご参照ください。)

まさに「人間万事塞翁が馬」。

趣味は瞑想です。

1977年から瞑想しています。      
基本的に24時間瞑想しています。
もちろん、座って瞑想するのも大好きです。

意識の内側へ入れば入るほ
ど、より覚醒し、より自由に
なってゆきます。

瞑想をとおして、
この世界のあらゆる楽しみ、
快楽をはるかに凌駕する
時間、空間を超えたこの
現象世界の源である
永遠不滅の純粋意識、
そしてその本質である
絶対的な自由と愛と至福を体験します。

多くの方にこの事実を体験を通
して知って頂きたいと思ってい
ます。

覚醒剤もドラッグもいりません! 

ただし、瞑想には、効果的で正しいやり方があります。

正しい角度で飛び込み、正しい泳ぎ方を身につけることで、スムースに海中深くに潜ることが出来ます。

それと同様で、効果的に効率よく、マインド(心)の内側深くに入り、究極的にはマインドを超越する方法が、正しい瞑想法です。

古来より覚者方より様々な瞑想法が、伝えられております。

マインド(心)は、永遠でもなく、真我(本当の私)ではありません。

その正体は思考であり、常に変化して止まず、幻影です。

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