超越瞑想入門 by マハリシ・マヘーシュ・ヨーギー

人生に光明をもたらした1冊の本との出合い

最近公開された映画「奇跡のリンゴ」を見てきました。大変感動しました。

内容を要約すると―

主人公の木村秋則さん、奥さんの農薬による健康被害を何とかしようと古本屋を探すうち、自然農法の福岡正信さんの本に出会い、無農薬栽培を試みるも、失敗続きで10年が経過。

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家計はどん底に、最後は山に入って自殺を試みたのですがこれも失敗。

ところがその時に、無農薬栽培成功に繋がるヒントが・・・。この辺は、まさに神の恩寵があったとしか思えません!是非映画を見てください。

ということで、誰にも、人生を変える出会いがあるかと思います。それが人であったり、本であったり。

私の人生における最大のエポックメーキングな出来事といえば、マハリシ・マヘーシュ・ヨーギー著「超越瞑想入門」(読売新聞社)との出会いです。

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(昭和46年5月に第一刷、52年1月に改訂第1刷が出ています。当時の訳者は、十菱麟氏)

1977年の春、当時通っていた神田の大学近くの古本屋でこの本と出合いました。


盛岡での神秘体験

丁度、その半年位前に、岩手県盛岡市郊外の友人宅で、偶然に非常に深い瞑想体験が起こり、心の内奥に、時間と空間を超越した次元がある、ということを直観しました。

その体験は、非常に深い静寂と至福の体験であった為に、この体験が一体何だったのかを解明したいという欲求と、その後何となくヨガや瞑想でこの体験を再現出来るのではと感じ始め、書店でヨガの本などを漁っていました。

しかし、これだというものがなく、神田から水道橋駅近くの書店まできて、今日はここが最後だと見て回っている時に本棚に1冊、背表紙の黄色のカバーの中のマハリシの写真が目に飛び込んできました。

また超越瞑想というタイトルにも惹かれ手に取りページを捲ると、最初のページから、そこには、まさにそれまで自分が求めていたものに対する答えが書いてあったのです。

そして最初の第1章「科学的現実」の「存在とは何か?」の部分の2ページ目に書いてあった一文を読んだ時の感激は今も忘れられません。


「存在」とは至福意識である

そこには、次のように書いてありました。

『体験によって、「存在」とは至福意識 bliss-consciousnessであり、あらゆる思考と万物の本源であることが明らかになります。』

この「存在」とは体験で至福意識である、という箇所は、自分が体験していた部分でもあり、すんなりとこの言葉の意味が心の内奥に入ってきました。

自分が長きに亘って捜し求めていたものはこれだ、とその時の喜びは言葉では言い表せません。

それから、早速本を読み始めたのですが、内容はとにかく素晴らしいの一言。しかし、どこまで読んでも瞑想のやり方は書いてありません。

本のまえがきには、瞑想アカデミーがインドの北部、リシケシにあると書かれていて、結局、インドに行かないと瞑想が習えないのかと、実際インドに行くつもりでいました。

ところが、見逃していたのですが、本の最後の方に、日本にも瞑想センターがあり、そこで瞑想が習えることが分かり、1977年5月末頃、当時東京駅八重洲口にあったセンターに行って、最初の説明を受けました。

私としては、インドまで行って習おうとしていた位ですから、瞑想を何がなんでも習得するつもりでいましたが、最後の方で、瞑想を習う為の費用として学生は1万5千円掛かります、と言われ一瞬躊躇してしまいました。(笑)

こういったスピリチャルなものは、ただ(無料)という思い込みがあったことももちろん関係しています。(今でも、インド人などはそうです。)


超越瞑想を習う

その10日後位の日曜日に千葉県の市川で、実際に瞑想を習いました。

瞑想の体験は、以前の記事「これまでの私の瞑想体験」にも書いたように大変素晴らしいものでした。

瞑想を習った後、トイレの鏡を見て目の輝きが全然以前と違うのには、我ながら驚きました。それまでは、死んだような目だったのです。

またそれまで雑念だらけで、注意散漫状態だったのが、物事に対する集中力が全然違っていることにも驚きました。

そして翌日から、ハイな状態になって、この感覚は、小学生の時、夏休みに入ってゆくときの、あの解放された感覚だ、とそれ以来今でも1日2回欠かさずに実践しています。

前回の記事「幸せなお産が世界を変える&バガヴァンの教え(2)」の中で、私は「西洋科学主義の根幹にあるのは、唯物論的なものの考え方です。」と書きましたが、来るべき黄金時代に向かって、物理学が進歩するに従い、おそらくこの唯物論的な考えが消えて無くなる日が来るのではないかと思います。

それでは、以下マハリシ・マヘーシュ・ヨーギー著「超越瞑想入門」(読売新聞社刊、マハリシ総合研究所監訳)
第1章から一部抜粋転載させて頂きます。

(以下、転載開始)


第一章 科学的現実 

自然科学の教えるところでは、この天地万物はいくつかのエネルギーの層から成り立っていて、一つの層の内側にもう一つの層があるということになっています。

そして、もっとも微妙・微小な層がいちばん奥にあるというのです。

かつて、物理学が二つの基本法則に支配されていた時代がありました。

つまり、エネルギーの不滅と質量不変の法則です。

エネルギーも物質も、それをあらたに創り出したり破壊したりできないと信じられており、ともに総量は別々に保存されるという考えでした。

当時は、原子が物質の最小粒子であるとされ、不変不滅のものと見られていました。 

相対性理論の出現とともに、こういった考えにも大きな変化がおこりました。

物質もまたエネルギーの一形式だということがわかり、物質がそれだけ単独に保存されるということはない、ということがはっきりしました。

放射エネルギーから物質を創造することができ、また物質を「破壊」して放射エネルギーに変換することも可能だが、形式はともあれエネルギーの総量は不変である、という考えにかわってきたのです。

したがって、天地万物は不滅のエネルギーから構成されている、ということになりました。
 
ところが、分割不能の原子という考えも、その後訂正されねばならなくなりました。

核物理学の発見により、あらゆる原子は少数の素粒子から成るということがわかりました。

安定性をもったプロトン(陽子)とエレクトロン(電子)、それに不安定なニュートロン(中性子)などです。

これらの微粒子は、原子よりもさらに微細な基本的レベルに属しています。
 
最近の数か年で、素粒子の数についてのわれわれの知識は、急速に伸びてきました。

次から次へと新しい不安定な粒子が発見されるようになりました。

現在の物理学が直面している状況として、このような素粒子さえいまでは「素」と考えられなくなっています。

そのまた奥に、物理学者たちはさらに微細な物質の状態をさぐろうとしています。

現在の「素粒子」を分割した超微粒子がまだあるというのです。

このように、物理学の探求は、物質またはエネルギーのいっそう微妙な状態に向けられております。
 
物理的世界を、私たちは「相対世界」あるいは「存在の相対領域」と呼ぶことにしますが、この世界にはいくつかのエネルギー形態があることが知られています。

これらの形態は物理学の法則に従って永遠に変化を続け、交互に形を変えています。

(A、B、Cの三形態があれば、A→B、B→C、C→A、C→B、B→A、A→Cというふうに)。
 
物理学の探求が続けられるにつれて、なにか根本的なエネルギー形式が一つ存在するのではないか、という考えを科学者たちが抱くようになってきました。

つまり、絶対的に安定しており、どのエネルギー形態よりも微妙なものがあるのではなかろうか、という考えです。

そうなると相対世界はこの絶対エネルギーの動揺形式として現われていることになり、あらゆる形式の物理エネルギーは、この隠れたエネルギーの絶対相が現象界にあらわれたものと見ることができます。
 
この絶対相があらゆる物質とエネルギーの本源であります。

その状態はあまりにも精密微妙であるために、物理学ではとらえようもない、ということはおわかりでしょう。

想念エネルギーというものすら、こんにちの物理学ではつかみようのない微妙なものです。

わかりきったことですが、人間の想念には、その一つ一つにエネルギーを含む一つの過程(プロセス)があります。

遠方に思念を送るということは、日常的な現像ではないにしても、テレパシーとも呼ばれ、超心理学で認める一つの「事実」となっていますが、これも「思念エネルギー」という概念を証拠立てるものです。
 
思念エネルギーの基礎を、私たちは「存在」の状態と呼んでいます。したがって、「存在」と「絶対」は同義語になります。
 
宇宙万物の微妙層に関する物理学の知織が伸びるにつれて、人間の能力はわずか数か年前に空想したことよりも、さらに奥深くまで届くようになりました。
 
物質とエネルギーの微妙層についての私たちの知織が、物質科学の諸発見を通じて増大してゆくにつれ、この新しい知識からさまざまの利益を引き出すことができます。

私たちの生活はますます包括的になり、より力強く、より便利になります。

野心や抱負も拡大され、さらに創造的な充実した生き方ができるようになります。

天地創造の根本である絶対エネルギーについての知織が増大してくると、地上人類の文明もいまだかつて夢想すらしなかった栄光を迎えるようになるでしょう。
 
物理学が前にのべた微粒子のより精妙な層をつぎつぎ探求してゆくと、かならず隠された存在相にぶち当たるはずです。

それはエネルギー粒子のもっとも微細な相の、そのまたかなたに横たわる「実在」の世界です。

科学は必ずや、「実在」を一つの科学的現実として認め、宣言することになるでしょう。まったく、それは時間の問題です。
 
しかし、将来の物理学者が科学のさいはての地に「実在」を確認する時まで、どれだけ長い時間がかかるにせよ、人間はいつまでも、この究極の「現実」を直接体験することができないという状態にとどまっていてはなりません。

なぜなら、この「現実」こそ人生の根幹を成すものであり、これを実現することによって、人生はあらゆる面で輝かしいものとなるからであります。


存在とは何か? 

相対界に存在する万物のもっとも微妙な層の下に、抽象的かつ絶対的な純粋「存在」の世界があります。

これは外にあらわれることのない超越次元であります。これは物質でもエネルギーでもありません。

それは純粋な「存在」であり、純粋実存の状態です。

この純粋実存の状態は存在する万物の根底に横たわっています。

あらゆるものは、この純粋実存、あるいは絶対「存在」の表現であり、逆にこの「存在」はあらゆる相対生活の本質成分であります。

この唯一の、永遠にして隠微な絶対「存在」が形をとって、天地間の数かぎりない生命体となり、存在物となるのです。

天地万物の究極現実としての存在 

つぎに、この「存在」を私たちがよく知っている人生の種々相のすべてと、どのように結びつけて理解したらよいのか、という疑問がおこります。

世間との関連において「存在」を知ることができるものでしょうか? 

われわれが生活している形式と現象の世界と「存在」との関係はどんなものでしょうか? 

実際にあるものと実存とはどのように区別できるのでしょうか?
 
実存とは抽象ですが、実在するものは具体的です。

実存とは「生」そのものだが、実存するものは、永久不変の実存現実の現象面(変化してやまない)である。といってもよいでしょう。

実存は生命の抽象的基礎であり、その上に具体的な生命構築がのっているのです。

この生命構築には個人のあらゆる面―肉体、心、思考、会話、行為、ふるまい、周囲を経験し、これに影響を与えることなどと、宇宙的実存のあらゆる面が含まれています。

生命は種々の生活法となって現われます。生活は生命の表現であり、実存するものは実存の表現です。

「在る」(ある)ものは「存在」の表現であります。

実存、生命、あるいは「存在」は、実存し生活し存在するすべてのものの隠されたリアリティーです。

「存在」はかつて在り、いま在り、未来に在るすべてのものの究極の現実であります。

それは永遠で限りなく、宇宙生命のあらゆる現象的実存の根本になっています。

それはすべての時間、空間、因果関係の本源でもあります。

それは実在のすべてであり、全能なる創造主の英知がはたらく永遠の「場」であって、万物にあまねくいきわたっております。

我はこの「永遠存在」であり、汝(なんじ)もまた「それ」であり、生きとし生けるものはすべてその本質において「永遠なるそれ」であります。

「存在」とは生命であり、実存です。

「ある」ということは生きること、実存することです。

「存在」または実在は、生活の種々面、すなわら、考え、話し、行ない、経験し、感じることに表われています。

人生のあらゆる面の根源は「存在」にあります。

「存在」が天地万物の究極的本質的構成要素であるということを悟りますと、人生のあらゆる面が絶対実存という無限次元にまで高められてきます。

相対的生活のなかに絶対相が色濃く滲(にじ)みわたるようになり、その結果、安定性と永久性が相対界にひろがってくるようになります。

エネルギーと知性と創造性は無限の価値に高まり、有限だった個人生活も無限の宇宙存在に引き上げられます。

「存在」が天地万物の究極現実であるということを知れば、そのような栄光が伴うのであります。

体験によって、「存在」とは至福意識 bliss-consciousnessであり、あらゆる思考と万物の本源であることが明らかになります。

それは相対的実存のかなたにあり、そこでは経験の主体つまり心がみずからを完全に意識した状態で、いわば「目ざめきった」状態にありますが、なにかの対象物を経験するということはないのです。

意識の心は、あらゆる思考の根源である“純粋意識”の状態に達します。

「絶対者」の全能なる創造的知性はあらゆる知性の本源であります。

「存在」はあらゆる力の源泉です。

それはまた、全自然界と天地間の種々雑多な形態と現象を維持する、さまざまの自然法則のみなもとでもあります。

「存在」の本質は、前にも述べた絶対の至福意識*です。

人生の根本である絶対的至福意識を知らない人生は、土台のない建築のようなものです。

「存在」を意識しない相対界の生活は、かじを失った漂流船にも似て、荒れ狂う嵐の海のまにまにただよって行くだけです。

それはまた、風に散らされた秋の落ち葉のように、風の好き勝手な方向にあてどもなく飛んでゆきます。

「存在」を悟ったことのない人間の生活は、根底がなく、無意味で、実を結ぶこともありません。 

*英語ではbliss-consciousnessという。blissは「至上の幸福」とか「天国の喜び」とかいう意味であるが、原注にはサンスクリットのSat-Chit-Anandaという語が与えられている。Satは永遠不易の意、Chitは意識、Anandaは至福とある―訳注。

「存在」は人生の根本であり、人生は意義を与え、実を結ばせるものです。

「存在」は神の生ける存在、人生の真実です。

永遠の真理であり、永遠の自由のなかに住する「絶対者」であります。

(以上、転載終わり)


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プロフィール

三休さん

Author:三休さん
のブログへようこそ!

昭和28年東京都江戸川区  小松川の生まれ

都電の西荒川駅前にあ
った生家には、故赤塚不二
夫さんが下宿していました。

上の写真は、昭和30年5月石森章太郎さんが赤塚さんを訪ねてきた時のもの。

赤塚さんは、その2年後有名なトキワ荘に引越しました。

徒歩数分の石毛肉店には、私と一緒に住んでいた従姉と同じ深川高校に通う五月みどりがいて、この翌年に歌手デビュー。

生家の2軒隣にその数年後、横綱柏戸が引越してきました。

私は、その後両親が近所に建てた家に引越したのですが、3軒隣にラグビー日本代表だったターザン橋本(本名橋本晋一)氏が住んでいて息子が私と同級生。

息子H君はその後早稲田ラグビー部の主将。

私が小中学校時代に通ったラグビースクールで一緒にプレーした新日鉄釜石7連覇の立役者Mr.ラグビーと言われた松尾雄治君とその後早明戦で戦ったのには驚きました。

私も高校でラグビー部に入ったのですが、挫折。結局それが遠因で、精神世界に。

そして今に至るのですが、何が幸いするか分かりません。

もし、そのままラグビーを続けていれば、何がしかの世界で成功したかもしれませんが、失敗の人生を歩んでいた可能性があります。

真の意味での成功者とは、永遠不滅の至福の境地である「悟り」に達した人々のことであり、そこに向かって着実に前進している人々のことを言います。

(「悟り」「真の成功者」に関して詳細は、本ブログ記事「ホイットニーの死をバガヴァンの教えから考察する」等をご参照ください。)

まさに「人間万事塞翁が馬」。

趣味は瞑想です。

1977年から瞑想しています。      
基本的に24時間瞑想しています。
もちろん、座って瞑想するのも大好きです。

意識の内側へ入れば入るほ
ど、より覚醒し、より自由に
なってゆきます。

瞑想をとおして、
この世界のあらゆる楽しみ、
快楽をはるかに凌駕する
時間、空間を超えたこの
現象世界の源である
永遠不滅の純粋意識、
そしてその本質である
絶対的な自由と愛と至福を体験します。

多くの方にこの事実を体験を通
して知って頂きたいと思ってい
ます。

覚醒剤もドラッグもいりません! 

ただし、瞑想には、効果的で正しいやり方があります。

正しい角度で飛び込み、正しい泳ぎ方を身につけることで、スムースに海中深くに潜ることが出来ます。

それと同様で、効果的に効率よく、マインド(心)の内側深くに入り、究極的にはマインドを超越する方法が、正しい瞑想法です。

古来より覚者方より様々な瞑想法が、伝えられております。

マインド(心)は、永遠でもなく、真我(本当の私)ではありません。

その正体は思考であり、常に変化して止まず、幻影です。

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