覚者が語る「吉田松陰」とは?

安部首相が尊敬する吉田松陰とは?

安部首相の名前、晋三の晋は、幕末長州藩の英雄高杉晋作から一文字をとって名付けられたそうですが、この高杉晋作の師と呼べる人物が吉田松陰です。

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その吉田松陰について、五井昌久師が、やはり聖徳太子について語っていたご自身の著書「日本の心」の中で取り上げています。

安部首相は、この吉田松陰を尊敬しているとのことですが、五井先生の本を読むと、この吉田松陰の考え方、生き方は、神への献身、まさにバクティ・ヨーガそのものです。

自我の為ではなく、公に殉する行為こそバクティです。松蔭や五井先生は、公を本心としていましたが、公とは、つまり真我であり、神我です。

五井先生の霊眼で見ると、吉田松陰は、今でも真人としての個生命を持ちながら、神々と俱に世界平和実現のための天使となって、地上界に働きかけているとのことです。

現在日本は、中国との問題やTPPなどいくつもの難題を抱えていますが、吉田松陰はじめ神々の導きによって、日本と世界が、最善の方向に進んでゆくことを祈願してやみません。

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(写真、五井昌久師、五井昌久著「宗教と平和」白光真宏会刊より)



吉 田 松 陰 

―大人は天地の理の中に生きる―

体は私、心は公

明治維新の前後には、素晴しい人物が輩出しましたが、現代では大人物というのにあまりお目にかかりません。これは一体どうしたことなのでありましょう。

現代の日本は、明治維新の頃以上に、大人物の必要な重要な時期に立ち至っているのですが、何故大人物が現われてこないのでしょう。吉田松陰の「坐獄日録」の一節によればこの理由は明らかです。

「体は私なり、心は公なり。私(体)をこきつかって公に殉ずる者を大人(立派な男)といい、公をこきつかって私に殉ずる者を小人という。小人が死ねばその肉体が腐爛潰敗するだけのことだが、大人は死すとも天地の理のなかで生きている」

いい言葉です。言葉が生きています。この松陰のいうように、公(本心)に殉ずるために私をこきつかっている人が、今日どれ程いるでしょう。

ほとんどの人が、私のために公をこきつかっているのです。天地の理の中に生き、永遠の生命をそのまま生きている、大人物は果していつ出てくるのでしょう。

私は大西郷を筆頭に勝海舟や坂本竜馬や山岡鉄舟や明治維新の頃の人物の多くを尊敬していますが、吉田松陰の立派さは讃えようもない程です。

近頃テレビで私の尊敬している山岡荘八氏の吉田松陰が放映されておりました。

松陰は日本を開発しようとして、生命をまとに黒船に乗りこみ、失敗すると、自ら名乗り出て刑に服そうとするのですが、役人たちは黒船乗込みが世間に知れては、役目不行届きになるし、幕府としても、あまり公にして後々真似る者が出たり、幕府の面目にかかわったりしては困るので、無罪或いは軽い刑で済まそうとします。

しかし、松陰はかえって自分が極刑になることによって、世間の心ある人々に、重大な岐路にある日本の運命を悟らせ、日本の進化のための目をひらかせようとするのです。

松陰は常に自分の言葉通りに、私(体)をこきつかって公に殉じようとしていたのであります。

この映画を観ていますと、松陰の日本を守り、日本を立派にしようとする公の心が、観る者の心に痛い程沁みてきて、涙がにじみ出てきます。

ちょうどイエスの歩いた歩き方そのままの気がします。

自分の信ずる歩み方をどんな迫害にあっても、いささかも曲げようとしなかったイエスと、松陰とには一脈相通ずるところがあるのです。

それは私を公に殉じさせたその生き方にあったのでしょう。

日本の政治指導者たちに、少しでもよいから、この吉田松陰の心を汲み取って実行して貰いたいと思うや切であります。自己の椅子を守るに汲々として、国家の進路を誤まらせるような政治家があったら、その罪万死に値いするのです。

西欧の物質文明の急速なる進歩に追いまくられて、天に通ずる精神の道をおろそかにしてきた、明治末期から大正昭和の日本の在り方が、公よりも私を大事にし、天に通ずる精神より、肉体に附属する感情想念に重きを置く、小人間像を育ててしまったのです。

それが、物質文明も隆盛になり、急速な経済発展を遂げながらも、日本を不動磐石の地位に置くことのできぬ、人物払底の時代としてしまったのであります。


つねに天地の理法を想う生き方

ですから大人物の育成のためには、どうしても天地の理を明らかにし、真実の人間性を解明して、人間如何に生くべきか、を徹底的に、人々に知らせなければならないのです。

昨日までの凡夫が、一日にして、飜然として本心を開発することもあり得るので、頓悟の人、漸悟の人、いずれにしても、本心開発の道を多くの人に知らせる運動が必要なのであります。

今日のように小人ぞろいの日本では、いつかは世界と共に滅びてしまうのは必然なのです。

何故ならば、大調和世界創設の中心となって働くのが日本の天命でありまして、そのためには日本人が、天地の理に叶った調和した真人になって、世界の見本とならなければならぬからです。

天地の理法に逆立ちした生き方の人間がいくら数多くいたとしても、それはいつかは滅び去ってしまう運命を持っているのでありまして、真実の地球世界を創り出す力とはならないのであります。
 
そういう意味で、天(神)を無視した唯物共産主義思想などは、いつかは自然に消え去ってゆくものなのです。

永遠の生命、永遠の平和につながり得るものは、天地の理法に叶った生活をなし得る者だけなのです。

吉田松陰などは若き肉体生命ではありましたが、今日でも天地の理法の中に、生命輝かに生きつづけているのであります。

それは、真人としての個生命を持ちながら、神々と俱に世界平和実現のための天使となって、地上界に働きかけているのです。
 
吉田松陰は若くして松下村塾を開き、若くして多くの子弟をもっていました。

西郷、大久保と並んで明治維新の中心となった木戸孝允(桂小五郎)、高杉晋作をはじめ、日本最初の首相となった伊藤博文や長州の若者たち、憂国の至情をもった、明治維新のために働いた人々の中には、松陰の影響をうけた人々が少なくなかったのです。

そういう意味でも、30歳の若さで世を去った松陰ではありましたが、多くの人々の中に生きつづけて働いていたともいえるのです。
 
下田沖で米艦による海外渡航に失敗した25歳の松陰は、萩の野山獄に送られますが、その獄の中にあっても、終身刑の人々までにも、道を求める喜びを湧きあがらせ、永遠の生命を求め得る希望を持たせることに成功しているのであります。

松陰の人格と学問との調和が一度びは、失意の底に沈んでいた人々に生きる勇気を湧き上がらせたのであります。
 
池田諭氏はその著吉田松陰(大和書房刊)でその間の消息をこういっております。

「新入りとして、先輩たちに食物のふるまいをすることになっていることなど、進んでやってのける。ある時は小豆がゆをつくって、皆で食べるとか、わざわざ医学の研究をして、治療法を教えるとか、相互扶助のための月掛貯金をするなど、直接、皆に役立つところからやっていくことによって、松陰はぐんぐん、皆の中にはいっていった。そして入獄後半年目には、座談会をもてるところまでこぎつけたのである」


仁と義に徹する実践学問

そうして獄中で「孟子」の講義をはじめました。そこで松陰はこう説いています。

「そこで、少しばかり僕の諸君と獄中にあって学を講ずるの意味を論じてみたい。

世間一般の通念でこれを批評するならば、われわれは今、囚人として獄につながれていて、再び世の中に出て、明るい交際ができるという望みはないといってよい。

おたがいに学問を講じ、一心にみがきあがって立派な業績をあげることができたとしても、それには何の具体的なむくいもないだろう云々、ということになる。この考え方がいうところの利の説だ。

しかしながら、仁義の説というとそうではない。人間の心が本来的に持っているものであり、物事の理が自然に行なわれているところで、それがはたらいていないところは一つとしてないものなのだ。

それを、人と生れて人の道を知らず、臣と生れて臣の道を知らず、子と生れて子の道を知らず、士と生れて士の道を知らないというのは、実に恥ずべきの至りではないだろうか。

もし、これを恥じる心があるならば、書を読み、道を学ぶ以外に方法はないであろう。

そして、そこに存在する幾つかの道を知ることができたならば、自分の心はこんなに嬉しいことはないのである。

『朝に道を聞きて、夕に死すとも可なり』という言葉の意味はこのことである。その上に、なお事業の成功や報いを論ずる必要があろうか。

諸君は、もしこの心がけがあるならば、初めて孟子を学ぶことのできる人であるということができるだろう。

さてさて、近世は文教が日に日に隆盛になってきて、士大夫も書を小脇にかかえて師を求め、一生懸命に勉学につとめている。

その風潮は、まことに立派であるといわなければならない。僕のような獄中につながれている賎しい囚人が、何の口ばしをいれることがあろうか。

しかしながら今の士大夫や勉学にいそしむ者をみるに、もしその心の内を論ずるならば、名声を得るためにするのと、役目を得るためにするもの以外ではない。

そうすれば、それは事業の報いを主とする者であって、義理を主とするものは全く異なったものである。ここのところをよく考えておくべきであろう。

ああ、世の中に読書人は多いけれども、真の学者といわれるべき者がないのは、学問を始めるにあたって、すでにそのときから志がまちがっていたからである。

その国のために、心をうちこんで励む主君は少なくないが、真の明主がないというのも、政治を行なってゆこうとするその初めにあたって、志がすでに誤っていたからである。

真の学者、真の明主が出てこないときには、物事が順調に進んでいるときは、それでもよい。しかしそれが逆境の場合であればともに語るべき人はいないであろう。

僕はいま、逆境に落ちた人間である。だから逆境についてだけは、誰よりもよく説くことができると思う。

嘉永六年、安政元年の年アメリカとロシヤの使節がやってきて、わが国に大事がおこったとき、皇国のすぐれた国体を屈して、卑しい外国の劣った姿に従うようになったのは何故だろうか。

それは、国の上下にわたってなされた議論が、戦に対する必勝の信念を欠いており、そこから議論を横にすべらせて、かえって自らに思いもかけない災害が起るかも知れないと恐れた、その恐怖に外ならなかったのだ。

これもまた、義理を捨てて事の成功や報いをのみ論ずる者からでた弊害で、これでは到底、このような逆境の場合は如何になすべきかなどという大事をともに論ずるわけにはゆかないのである。

世の道理や人倫道徳を明らかにする学問に志す者は、二たび三たび考えて貰いたい」 (講孟余話より)


松陰の学問は実践の学問でありながら、仁義に徹した道でありまして、この世の名声を得るためのものでも、役目地位を得るためのものでもなく、天地の理法をこの世に現わすための、小我を捨てきった実践の道であったのです。

ですから義や理法を捨ててこの世の事業や政治に成功してゆく道でもなければ学問でもなかったわけです。

その真理に徹しての行動は、自己のみならず、親兄弟の幸不幸を度外視したものでありまして、道にたが違う行いとみれば、重役にでも、藩主にでも、まとも真正面に意見を加えたのであります。

今日の社長とか重役になら、叱られたところで、その会社を退めれば事足りるのですが、封建制下の藩主とか重役の意見にそむけば、まかり間違えば、自分ばかりでなく、親兄弟や親類にまで、その罰が及ぶのですから、とても、余程大義に徹し、不惜身命の人で、肉親の情をも超えていないと出来がた難いところです。

松陰は天地の理のために、日本の将来の発展のために、敢えて、何人にも出来難いようなことをやってのけたのです。

そして最後に死刑に処せられるわけで、なんともいえぬ壮絶な一生であります。

この松陰の身を捨て切った行動が、明治維新の大業に影ながら大きな功績があったことはいうまでもありません。

同心の志や後輩たちの正義の血をいやが上にも燃え上がらせ、多くの人を維新の大業に立ち上がらせたのですから。

ここで、松陰と弟子たちとの交わりについて山岡荘八氏著「吉田松陰」(学研刊)より文をお借りします。

松陰と弟子たちとの交り

彼が、新しくやって来る入塾希望の少年たちに、どのような態度で接したかについて、二つの例をあげてみよう。
 
横山重五郎は14歳で入塾しているのだが、その時にはもう松陰の名は、少年たちの間で押しも押されもしない「英雄―」であった。

もともと藩校の教授である。そのうえ日本中を遊歴して、黒船に乗りこもうとまでしたことがひろく知れわたっている。横山少年は、どんなにこわ怖い先生であろうかとおそるおそる塾へ出向いた。
 
「―その容貌言語果して人に異り……」
 
彼は、そのおりの事をまっ先にそう記している。彼の想像していた松陰と全然違う印象で、ひどく貧弱なやさしい感じだったのが、こうした書き出しになったらしい。
 
「ご勉強なされい」
と、松陰は言った。

少年は先ずその言葉づか遣いの丁重さにびっくりした。そして与えられた仮名まじりの本を開いていると、松陰がそばへやって来て、その一節を読んだあとで、
「―これはひたちおび常慢帯という、水戸の藤田彪という先生の撰んだ本です。そもそもこの藤田先生という人は……」

勉学に入る前に、著者の人となりから、風貌、逸話の類までくわしく伝え、そうした人が、何のためにこの本を書く気になったか? 

何を後人に訴えようとしているのか? そうした事を考えながら学習するよう、いんぎん慇懃に教えてくれてから又言った。
「―ご勉強なされい」

横山重五郎はそれだけで、もはや松陰を心の底から敬愛するようになった。

「―一つもみずから英雄ぶって人を虫や蟻のように見下すところはなく、ただわずかに師の方が私よりも年長者だけだというだけである。

予は大いにおどろき、きく喜懼おくあたわず……余は学問に志して来たとは言え、未だ乳臭い少年に過ぎない。

天下に名のとどろいた鬼神、豪傑とも言うべき先生が、このように諄々と真情を傾けて教えを乞えば、いかに自分が不才であっても、何かひとかどの、用に立つ人間になり得るかも知れない。そう思うと欣然おく能わず……」と書き残している。

馬島春海という塾生は16歳の時に、滝弥太郎と共に村塾を訪れ、束修を差出してご教授に預りたいと挨拶した。

すると松陰はこう答えた。
「―教える……というようなことは出来ませんが、一緒に勉強しましょう。諸君に勉強する気があれば、私もそれで教えられるに違いない」

二人はびっくりして、その日はそれで辞去することにした。松陰はそれを玄関まで送って出て、師弟というよりも、全く対等の友人のように扱ってくれたと言って、

「われ等少年に対して、その謙遜なることかくの如し」
と述べている。

松陰の人となりが眼にみえるようです。

世の中には偉くもないのに、やたらと尊大ぶってみせる人や、家柄や地位をかさにきて、人を下目にみたりする人がいますが、鼻もちなりません。

佐久間象山という人は、松陰とは全く反対の尊大ぶった人でしたが、学問が非常に秀れていて、先を見る眼も確かで、日本の国を愛する熱情の人だったので、松陰とはひどく肌合いが違いましたが、考えるところが一つだったので、心が通じ合っていたようでした。

しかし私どもは松陰のように、個人の自己としては、非常に謙虚でいながら、事、義や理のためとなりますと、熱烈一歩も後へ退かぬ逞しい闘魂を燃え上がらせる人のほうを好もしいと思います。

私どもの平和運動に致しましても、いざという時には、相手の不調和な想念を焼きつくさねばおかぬような、烈しい気迫が必要でありまして、平和を乱してはならぬという気持ちから、悪や誤ちに妥協してはいけません。

悪は悪、誤ちは誤ちですから、これはあくまで祈り心で正して、真の調和世界をつくりあげてゆかねばならぬのです。

ですから、個人の我としては、あくまで柔和で謙虚でしかも明るく、大義のためには鬼神も退くという程の気迫を持って世を渡らねばなりません。

そこが祈りによる世界平和運動のむずかしいところで、まずこの文章の最初の松陰の「坐獄日録」の言葉を手本に致したいと思います。


松陰の死生観


ここでまた、松陰の言葉をつづります。これは死刑の前日10月26日に記したものです。
 
身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂
 
「―5月11日に関東に呼び出されるという知らせをうけてからは、またひとつ、誠という字をつねに念頭において出所進退を明らかにしなければならないと思うようになったこともたしかである。

ちょうどその頃、杉江入蔵は死ということについて考えなさいという意味のことをいってきた。

しかし、僕はこれを用いなかった。

それよりも、自分の心をあらわすものとして、一枚の白布を求め、これに孟子の「至誠にして動かざるものは未だ之れ有らざるなり」という一句を記し、手ぬぐいに縫いつけ、それを持って江戸入りをし、これを評定所のなかに留めおいたのもそのためであった。

吾れ此の回初めもと素より生を謀らず、又死を必せず。

(僕はこの度のことで初めから生きるための工夫もしなければ、死を必然だとも思わなかった)唯だ誠のつうそく通塞を以て天命の自然に委したるなり。

(唯だ、誠が通じるか通じないかということを以て、天が指示する運命のなりゆきにゆだねたのである)
      *
今日死を覚悟して少しも騒がない心は、春夏秋冬の循環において得る所があったのだ。

思うてかの農事のことをみるに、春は種をまき、夏は苗を植えつけ、秋に刈り、冬はそれをかこっておく。

秋、冬になると人々はみなその年の成功を悦んで、酒をかもし、甘酒をつくって、村野に歓声があふれている。

いまだかって、西成にのぞんで歳功の終るのを悲しむものを聞いたことがない。
 
僕は年を数えて三十歳になる。一事をなすことなくして死ぬのは、あたかも農事で稲のまだ成長もせず、実もつかず、という状態に似ているのだから、残念だと思わないではない。

しかし今、義卿自身としていうならば、これもまた秀実のときである。必ずしもこの身を悲しむことはいらないだろう。

何故なれば、人間の寿命は定めなきものである。

農業における収穫の必ず四季を経過しなければならないのとは違っている。

十歳で死ぬる者には、おのずから十歳の中の四季がそなわっており、二十歳には二十歳の、三十歳には三十歳のおのずからなる四季があるのだ。

五十、百になれば、また五十、百の四季があり、十歳では短かすぎるというのは、数日しか生きない夏蝉の運命をして、百年も千年も経過した椿の木の寿命にひきのばそうというものである。

また百歳を以て長いというのは、その長寿の椿を、短命の夏蝉にしようとすることなのだ。

どちらも、天命に達しないというべきであろう。義卿は三十、四季はもう備わっている。

成長もし、また実りもした。それがしいらであるか、十分に実の入った種であるかは僕の知るところではない。

もし同志の士に、僕の微衷を憐れんで、それを受けついでやろうという人があるならば、そのときこそ後に蒔くことのできる種子がまだ絶えなかったということで、おのずから収穫のあった年に恥じないということになろう。

同志諸君よ、このことを考えていただきたい。      ―留魂録抄―」

 
三十歳にしてこの死生観、実に天晴れという他はありません。

これが、戦国時代のように、自分が好むと好まざるとにかかわらず、身命を賭さねばならぬ時代ではなく、自らが避ければ、死をまぬがれ得る時代において、卒先して身命を投げ打ち、維新の大業の礎となった松陰の生死を超越した心は、いつの時代においてもかがみ鑑となる本心開発の姿でありましょう。

松陰は正にイエスであり、ソクラテスでもあったのです。

戦争のようにさけられない運命の中で、死を覚悟するのは、まだ易しい。

しかし、常に大義のために生死を超えて、本心を出し切って生きることは、実にむずかしいことなのであります。

私ども易行道宣布の者にとっては、吉田松陰そのものの人をつくり出そうとは思わないのです。

松陰のような人は、滅多に出現する人ではなく、天が日本に降し給うた菩薩であって、人間の今生の教育でああなったのではありません。

学問はその本来の使命を引き出したに過ぎません。

ですから、多くの凡夫に松陰のように天地の理法を実現する熱情と、悪や誤ちに妥協せぬ、堂々たる生き方を、少しでも心に沁み込みこませたいと思うのです。

そして、たらざるところは、常に守護の神霊に感謝し、自己の心を汚し曇らせる業想念や、他人がみせる汚れけがれを、すべて過去世からの因縁と観じて世界平和の祈りの中に消し去ってゆく、という、消えてゆく姿で世界平和の祈りの行に専念して生活してゆくことをすすめるものなのであります。

士 規 七 則
 
最後に、松陰の従弟である玉木彦介の元服式に松陰が書き贈った、士規七則を、山岡荘八氏著「吉田松陰」より抜粋しておきます。

これは、乃木大将などの座右銘になったもの、原文はいうまでもなく格調の高い漢文なのだが、これを現代文に直してある、と山岡氏はいっております。   

士規七則

書物をひら披いてゆけば、傾聴すべき言葉は林のごとく、人々の胸に迫るものがある。

しかし人はあまりこれを読まない。もし読んでも実行しない。

読んで実行しさえしていたら永遠に誤ることあるまいに、ああ噫! 繰返してまた何をか言わんやだ。と言って、知っていることを言わずにいられないのが人間の至情である。

古人はこれを昔から言っている。自分も今また止むに止まれずそれを繰返す。

一、凡そ生れて人たれば、よろしく人の禽獣に異る所以を知るべし。けだし人には五倫(五つの踏みはずしてはならぬ道。父の義、母の慈、兄の友、弟の恭、子の孝。)あり。

しかして君臣父子を最も大いなりとなす。故に人の人たる所以は、忠孝を本となす。

一、およそ皇国に生れては、よろしくわが宇内に尊き所以を知るべし。けだし、皇朝は万葉一統にして、邦国のしふ士夫、世々祿位を襲ぐ。人君は民を養いて祖業を継ぎたまい、臣民は君に忠にして父子を継ぐ。君臣一体、忠孝

一致なるは、ただわが国において然りとなす。

一、士の道は義より大なるはな莫し。義は勇によりて行われ、勇は義によりて長ず。

一、士の行いは質実にして欺かざるをもって要となし、巧詐にしてあやまち過をかざ文るをもって恥となす。光明正大、みなこれより出ず。

一、人、古今に通ぜず、聖賢を師とせざれば、すなわちひふ鄙夫(いやしい男)のみ。書を読みて尚友とするは君子の事なり。

一、徳をなし材を達するには、師恩友益多きに居り、故に君子は交游をつつしむ。

一、死して後止むの四字は、言簡にして義ひろし、堅忍果決、確乎として抜くべからざるものはこれをおきてすべ術なきなり。

右士規七則、約して三端(三ヶ条)となす。曰く、志を立てて万事の源となし、交を択びて仁義の行いをたす輔け、書を読みて聖賢のおし訓えをかんがう。士、まことに、ここに得ることあらば、又もって成人となすべし。                ―21回猛士手録


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プロフィール

三休さん

Author:三休さん
のブログへようこそ!

昭和28年東京都江戸川区  小松川の生まれ

都電の西荒川駅前にあ
った生家には、故赤塚不二
夫さんが下宿していました。

上の写真は、昭和30年5月石森章太郎さんが赤塚さんを訪ねてきた時のもの。

赤塚さんは、その2年後有名なトキワ荘に引越しました。

徒歩数分の石毛肉店には、私と一緒に住んでいた従姉と同じ深川高校に通う五月みどりがいて、この翌年に歌手デビュー。

生家の2軒隣にその数年後、横綱柏戸が引越してきました。

私は、その後両親が近所に建てた家に引越したのですが、3軒隣にラグビー日本代表だったターザン橋本(本名橋本晋一)氏が住んでいて息子が私と同級生。

息子H君はその後早稲田ラグビー部の主将。

私が小中学校時代に通ったラグビースクールで一緒にプレーした新日鉄釜石7連覇の立役者Mr.ラグビーと言われた松尾雄治君とその後早明戦で戦ったのには驚きました。

私も高校でラグビー部に入ったのですが、挫折。結局それが遠因で、精神世界に。

そして今に至るのですが、何が幸いするか分かりません。

もし、そのままラグビーを続けていれば、何がしかの世界で成功したかもしれませんが、失敗の人生を歩んでいた可能性があります。

真の意味での成功者とは、永遠不滅の至福の境地である「悟り」に達した人々のことであり、そこに向かって着実に前進している人々のことを言います。

(「悟り」「真の成功者」に関して詳細は、本ブログ記事「ホイットニーの死をバガヴァンの教えから考察する」等をご参照ください。)

まさに「人間万事塞翁が馬」。

趣味は瞑想です。

1977年から瞑想しています。      
基本的に24時間瞑想しています。
もちろん、座って瞑想するのも大好きです。

意識の内側へ入れば入るほ
ど、より覚醒し、より自由に
なってゆきます。

瞑想をとおして、
この世界のあらゆる楽しみ、
快楽をはるかに凌駕する
時間、空間を超えたこの
現象世界の源である
永遠不滅の純粋意識、
そしてその本質である
絶対的な自由と愛と至福を体験します。

多くの方にこの事実を体験を通
して知って頂きたいと思ってい
ます。

覚醒剤もドラッグもいりません! 

ただし、瞑想には、効果的で正しいやり方があります。

正しい角度で飛び込み、正しい泳ぎ方を身につけることで、スムースに海中深くに潜ることが出来ます。

それと同様で、効果的に効率よく、マインド(心)の内側深くに入り、究極的にはマインドを超越する方法が、正しい瞑想法です。

古来より覚者方より様々な瞑想法が、伝えられております。

マインド(心)は、永遠でもなく、真我(本当の私)ではありません。

その正体は思考であり、常に変化して止まず、幻影です。

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