覚者が語る「日本の恩人、聖徳太子」とは?

私が、1977年にマハリシ・マヘッシュ・ヨーギーの書いた「超越瞑想入門」(読売新聞社刊)と神田の古本屋で出会ってTM瞑想を始めた頃、白光真宏会の創始者で有名な五井昌久師の本に、やはり感銘を受けたことがあります。

(白光真宏会は、バガヴァンとも縁があるようで、数年前に共同で世界平和大会を開催したことがあります。)

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(五井昌久師、「日本の心」白光真宏会刊より)

その時、もしTM瞑想に出会わなければ、白光真宏会に入っていたのではないかと思います。

この方も紛れもなく覚者だと思ったからです。とても素晴らしい内容の本を何冊も出版されています。

その中でも特に、今の時代にぴったしではないか、と思う本があります。

それは「日本の心」と題された本です。

この度の選挙による安部首相の登場によって、日本が今、平和の道を行くか、戦争の道に突っ走るかの岐路に立たされているように思います。

安部首相は、愛国者と思われますが、憲法改正など一歩間違えると戦争への道を走ることになる危うさを秘めているように思われます。

この五井先生の書かれた「日本の心」の中に、かつて日本に存在した聖賢への深い洞察を通して、日本が今後進むべき道が明確に示されています。

その本の中からいくつか抜粋して、紹介させて戴きます。

先ずは、聖徳太子です。私などは、このような人々のことを思うだけで涙が出てくるのですが、太子は、偉大な聖者だったことが、五井先生の文章から分かります。日本の恩人と言ってもいい方です。

かつて、日本の歴史にこのような人物がいたことを誇りに感じます。インドで言えば、アヴァター(神の化身)と言われた「ラーマ」に匹敵する人物です。

五井先生も書いていますが、今の政治家は、この聖徳太子を少しでも見倣らわなければなりません。

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(以下、「「日本の心」五井昌久著、白光真宏会出版局刊より転載)

聖 徳 太 子


太子生誕の意義 

聖徳太子について人々はくわしいことは知らないにしても、太子は日本の歴史上の人物としては、かなり有名でありまして、彫像や画像によって、その姿形は巷間にもよく知られております。
 
私が聖徳太子について書いてみたいと思ったのは、現代にこそ、聖徳太子のように霊覚者であって政治家でもあった、というような人物の出現を望むこと切であるからです。

聖徳太子は、女帝である推古天皇の摂政の宮として、天皇そのままの政治を司る要職にありましたので、政治家としてまた政治指導者として、縦横にその霊覚による政策を遂行してゆかれたのであります。
 
聖徳太子の生れられたのは、西歴574年でありますが、その頃の国情は、国民の上の人も下の人も、思想は幼稚であり、生活も低級でありまして、文化と称する程のものもなく、氏族制度、封建制度の弊害はそれはひどいものでありました。
 
中央政界は蘇我、物部、中臣、大伴などの伝統的権力者により、常に氏族的抗争を繰り返し、国政は私勢力拡張のためのものでありまして、世襲的に要職を独占しており、地方においても、国司、国造、伴造などが、同じように土地人民を私有していました。
 
実際には天皇が大権を握っているわけなのですが、実は氏族の権力者の手にその実権は握られていまして、人民の幸福などというものは考えられてもおりません。

ただ、権力者が私欲のままに人民を使役していたに過ぎなかったのです。

ですから天皇といえども、時の権力者に逆らえば、天皇の座に止まることができなくなったのでありまして、崇峻天皇などは、時の権力者蘇我氏を抑えようとして、かえって刺殺されてしまいました。

ところが幸なことに、聖徳太子は、大臣蘇我稲目の娘堅塩姫の子の橘豊日皇子(用明天皇)を父とし、同族小姉君の娘の穴穂部間人皇女を母として生れていたのでありましたので、後年推古天皇の摂政として政治を行う時にも、深い蘇我氏との姻戚関係が、太子の身を完うせしめたともいえるのです。

ちなみに父母の母たちが共に29代の欽明天皇の后でもあったのです。

太子の生まれた頃は大臣蘇我氏と大連物部氏とが対立し合っていましたが、やがて次第に曽我氏の独裁にうつっていったのであります。

もし太子が力弱い氏族の閨閥から出ていたならば、いかに太子の器量が秀れていても、大きな働きは出来なかったことでありましょう。

すべては神謀らいによるものでありまして、時と処と場とを神謀らいに謀らい給うて、聖者賢者を遣わされるのであります。

聖徳太子はそういう意味で、日本の天命を果させるための先駆けの聖者として、地球上に生れ出た人物といえるのです。

五世紀の頃は、当時の南宋(中国)に歴代の日本の天皇が、こもごも使者を遣わして、南宋のご機嫌取りをしていたのでありますが、これは朝鮮半島の諸国、百済、新羅、任那、加羅、秦韓、慕韓等の勢力を抑えるために、大国である南宋と緊密に結びついていたかったからでありましたが、その甲斐がありまして、雄略天皇は、秦韓、慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王に任命されましたが、百済は日本の政治的支配下に入らず、六世紀になりましてからは、日本は任那の支配権まで失って、次第に朝鮮半島における権力をなくしていってしまったのです。

そして、雄略天皇22年(西暦478年)には中国王朝とは個人的交流のみで、国としての交流が暫らく絶えてしまいまして、そのまま、聖徳太子の時代にうつってきたのであります。


日本文化と太子

聖徳太子在世の頃の日本は、中国大陸の諸国から、日本は倭と呼ばれていまして、百済や高麗や新羅よりも後進の国としてみられるに至り、あたかも中国の属国のように見られていたのであります。

それもその筈でありまして、日本国内は、氏族同志の権力斗争に明けくれていて、国内の文明文化に対しては、一向に心を傾けていなかったのであります。

もし聖徳太子が日本に生れ出なかったならば、日本はいつしか中国の属国となり果ててしまっていたのではないかと思われます。

聖徳太子の偉大さは、その平和を切望する心と共に、中国大陸の文明文化をいち早く、自国のものとし、それを吸収消化せしめたことにあるのであります。

今日の日本の文明文化への道開きは一に聖徳太子の功績によるものといえましょう。

太子が生長されるまでには、父用明天皇は太子の14才の頃におかくれになられ、その悲しみの年に、蘇我馬子と穴穂部皇子、物部守屋とが戦い、太子は止むなく馬子側に参加して、穴穂部皇子と、物部守屋を滅亡せしめ、人間関係の深刻さや、この世の悲劇的な在り方に大きな衝激を受けたのであります。

こういう門閥の争いが何度びかつづくのをみつめて、太子の心は釈尊と同じように、この世を超越せねば生きられぬ深い心の動揺を感じられ、ますます仏教に深く入ってゆかれたのです。

太子と仏教とは切っても切れぬ縁がありまして、日本仏教の開祖は聖徳太子その人といえるのであります。

太子の仏教はあに仏教という一つの宗教ではなく、古代から日本に存在していた神とう道の道とも融和していた広い深い仏教であったのです。

蘇我、物部の対立は勿論氏族同志の対立抗争ではありましたが、仏教派の蘇我氏と神道派の物部氏との対立でもありまして、これによって行った悲劇が、太子の心に神仏合体の宇宙宗教への道を開かしめたのであります。

太子は先人の政治政策が常に利欲に充ちたものであったのを眼のあたりにみておりますので、自らは閥を超え氏族を超えた政治であることを心に定め、対立的な相手に対してでも精神的にことを運び、常にすべての調和を旨としていたのでありました。

その心の現れの最たるものが、有名な十七条の憲法なのであります。
 

太子の非凡さ

この十七条の憲法のことは次の機会に述べることに致しまして、ここで、太子の非凡さを称える言い伝えを述べてゆくことに致しましょう。

日本書記によりますと、

「皇后、懐姙開胎さむとする日、禁中を巡行し、諸司を監察たまひて、馬の官に至り、すなはち厩戸に当りて労みたまはずして忽に産みたまひき。

生れましながら能く言ひて聖智ありき。

壮に及りて、一に十人の訴を聞きて失たず能く弁へたまひ、兼ねて未然のことを知りたまひき。

また内教を高麗の僧恵慈に習ひ、外典を博士覚哿に学びて、竝悉にさとりたまひき。

父の天皇愛みて、宮の南の上殿に居らしめたまひき。故その名を称へて、上の宮の厩戸の豊聡耳の太子と謂す」

とあります。

また、誕生霊験の一例をひきますと、

「古今目録抄」の文中「阿佐礼拝四十九」の語があります。 

阿佐というのは、百済威徳王の王子で推古天皇の第五年(太子二十四才)に来朝し、方物を献じたことは「日本書紀」にも記され、一般史家の認める事実でありますが、阿佐はすこぶる観相をよくする人で、聖徳太子の人相を一見して驚歎し、礼拝してしかも太子の生涯を予言したといいます。

「扶桑略記」の文をひいて見ますと、

「僕、此国に聖人有り、僕、自ら拝観せば情足る矣と。太子これを聞いて直ちに殿内に引く。

阿佐驚き拝して、太子の顔また左右の足掌を見、更に起って再拝すること両段、退いて庭に出で、右膝、地に着けて、合掌慕敬して曰さく、敬礼す救世大慈観音、妙教一たび東方の日国に流通し、四十九才伝燈演説したまふ、大慈敬礼菩薩と。太子目を合す。

須叟にして眉間に一白光を放つ。長さ三丈許り、良久して縮み入る。

阿佐再び起って再拝両段して出づ。太子、左右に語げて曰はく、是れ我がさきしん昔身に我が弟子たり、故に今来りて謝するのみと。時人はなはだ奇とす」

こういうことは、一笑にふす人もありましょうが、私の霊覚でみましても、事実でありまして、聖徳太子の如きは、仏陀、キリストに比してなんら遜色ない霊覚者なのであります。


毅然たる太子の外交

聖徳太子の霊覚によりますと、日本の真の姿がはっきり見極められますので、その日本の真の姿を、中国にも知らせる必要があることを痛感されまして、西暦600年、推古天皇8年に、太子は、中国王朝に使者を派遣し、ここに再び中国王朝(その時の国名は隋といいました)との直接の交流がはじめられたのです。

第一回の遣隋使が帰国する際には太子の要請によりまして、多くの書籍や、新知識をもった漢人たちが、使者とともに来朝してきたのであります。

第二次の遣隋使には小野妹子が大使として中国に渡ったのですが、この時よう煬帝に渡した国書が、聖徳太子の面目躍如たる「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。つつが恙なきや云々」という文面だったのです。

その頃の超大国である中国(隋)に対して、こういう大胆不敵な書を贈った聖徳太子の心には、古い古い昔の天御中主天皇の頃からの日本の真の姿が、霊の中心の場としての日本の姿が、はっきりわかっておられたからであります。

それでなければ、現実の国土においても武力においても、文明文化においても、はるかに弱く小さい日本国の立場で、こんな大胆な書面を贈れるわけがないのであります。

こういう書面をもらって、中国の煬帝は、無礼なと一度は不快に思ったのですが、書中にみなぎる、聖徳太子の光に打たれて、このような自信に充ちた書を贈ってくるからには、よほどに、倭国も進歩向上しているのであろうと、かえって逆にその意気高遠なるに大きな興味を持って、国書を持たせて裴世清等13人の使者を日本の国情視察のために送って寄こしたのです。
 
こうして、中国王朝との交流が復活し、四度遣隋使が派遣され、留学生を送ったり、あちらからも種々の人物が来日して、仏教をはじめ、文物、制度、技術などの各部門にわたり、大陸文化全般を吸収してゆき、急速に日本の文明文化が向上していったのであります。
 
その頃の政治の実権は蘇我馬子にあったのですが、対隋(中国)外交の主導権は聖徳太子にありまして、文明文化の発展や、精神的な指導などは、一に太子の掌中にあったのです。

時の最高の権力者であった蘇我馬子も、太子の高い人格に抑えられていたことは事実なのでした。


太子と親鸞

こうした太子の中国との交流による大陸文化の吸収こそ、今日の日本の発展の基本になっているのであります。

太子は日本仏教の祖であると共に、日本文化発展の最初の人であるわけで、太子の恩恵は今日にまで及ぼしているのです。

浄土真宗の親鸞上人なども、聖徳太子を非常に尊敬し愛慕しておりまして、御伝鈔にも、

「仏教むかし西天より興りて、経論いま東上に伝わる。是ひとへに偏上宮(聖徳)太子の広徳、山よりもたかく、海よりもふかし」といっていたり

「大師聖人すなはち勢至の化身、太子又観音の垂迹なり、このゆへに、われ二菩薩の引導に順じて、如来の本願をひろむるにあり」
といっております。

そして、皇太子聖徳奉讃の歌をいくつも作っております。その一つ二つをあげますと、

聖徳皇のあはれみて
仏智不思議の誓願に
すすめいれしめたまひてぞ
住正定じゃ聚の身となれる    

和国の教主聖徳皇
広大恩徳謝しがたし
一心に帰命したてまつり
奉讃不退ならしめよ

などというのがあります。

ちなみに申上げると、親鸞上人は宗教的に一番苦悩されていた時に、聖徳太子廟の夢殿で統一している時、聖徳太子が霊的に現われられ、親鸞上人の行くべき道を教えて下さった、ということでありまして、それが法然との結びつきになり、僧の最初の妻帯者ともなるきっかけがつくられ、ここに民衆と最も身近な宗教の門が開かれることになるわけなので、親鸞にとっては、守護神的働きを聖徳太子がなさっているわけになるのであります。
 
ですから浄土真宗の人たちにとっては、聖徳太子は法然と共に大恩人なのです。

もっとも聖徳太子は真宗の人ばかりでなく、日本仏教そのものの恩人でもあり、日本文化の恩人でもあり、日本を中国と対等の立場に立たせてくれた恩人でもあるわけです。


政治家こそ見ならってほしい

現代の政治家諸氏も、過去から未来までの遠い慮りをもった見識に立って、対外及び国内の両面の政治を行ってゆかねばならぬものなのです。

ただ単にその場だけの国民の要望に応えたり、外国の機嫌を取ったりする政治ではなく、日本の真の姿を基本にした、高遠な理想をもった政治を行わぬ限りは、日本は外国から尊敬される国とはならないのです。
 
日本の真の姿は調和そのものであって、いたずらに附和雷同する国ではないのであることを、そして、地球上における霊の中心の場に日本が置かれていることを、よくよく考えてみなければいけないのです。

考えてみるといっても、この頭脳の考えではなく、深い統一観による、魂の底からの叡智によって、すべての行動を定めてゆかねばならぬのです。

そういう意味で、今更のように聖徳太子の偉大さがわかってくるのであります。

聖徳太子は常に心を統一されて政務を行っていたのでありまして、斑鳩の夢殿は、太子の統一の場でありました。

太子はここの統一によって、守護の神霊より教えをあおぎ、政務を司っていたのであります。
 
現代の政治家の中に、太子の如く、常に神とのつながりにおいて、政務を行っている人があるでありましょうか、

ただ単に自らの小智才覚によって、その場、その時の穴埋め的政策を行っているのでありますから、真実に日本を安泰にし、世界人類の完全平和達成の道に向ってゆくような、政治政策を行える道理がありません。
 
今後の世界政治においては、守護の神霊と人間との深い結びつきによる政治政策によるより他に、完全平和達成の道は開かれることはないのです。

何故ならば、人智によっては、眼前の事象のみに眼を奪われ、その処理にのみ窮々として、永遠のための政治政策を行う心の余裕を持つことができないからです。
 
本来の智慧能力は、すべて神からきているのでありまして、人間智というのは、頭脳の中に蓄積された、僅かな経験によるものなのです。

そういう小智才覚で、この尨大な宇宙の一員である、地球世界の政務を司ることは土台無理なことなのです。

国家や世界の政治にたずさわる者は、一度はその肉身の想念や才覚を打ち捨てて、改めて宇宙大霊の分生命としての自覚に起ち、はじめて政務にたずさわるべきなのでありまして、単なる個人のままの智恵才覚で、政務を司ろうとする心構えは言語道断というべきなのです。

祈り心なく統一の行なき政治家は、決して天意を受けることはできないのです。

そういう点で、聖徳太子の行蹟をよくよく範として学ぶべきなのであります。


三つのポイント

聖徳太子は、涅槃のこともよく知っておりましたし、神界霊界へも自由に往き得る自由身をもっておりました。

学問的には、周易、老子、荘子、易経、書経、詩経、春秋、礼記というように多くの書を読み、天文地理にも通じていたようです。

仏教の教えとしては勝鬘経や維摩経や法華経をよく説かれておられましたが、それら仏教を学問として知っていたよりも、その真理を身心に体して知っていたのであります。

ですから人の心を察知することも、日本の情勢や中国や朝鮮の状態なども、その霊覚に照してよくわかっていたのです。

そういう能力によって、大国中国と対等に附き合えたわけです。

現代の政治家たるもの日米外交、ソ連中国に対する態度、アジア諸国との交流など、聖徳太子の如く、自国の本来の天命に基づく、毅然たる態度をもって柔軟にしかもその場その時々において、自由円滑に政治政策を行うべきなのです。

それにしても、もっと魂的に深い統一観をもって、神霊との一体観を得る修業をしなければ、とても大政治家たり得ぬと思うのです。
 
聖徳太子が現代の政治家をはるかに超えていたことの第一は、神と直通した叡智の持ち主であったことです。

第二には心に私がなく、常に神仏のみ心を持って国家や国民のための政治を行ったこと、第三に憲法十七条のはじめの言葉にあるように、和を以て貴し、としたことであります。
 
政治を司る中心者がそういう聖者であることは、その光明が自ずから国内に反映して、氏族の斗争も絶え、国民の心も安定し、中国(隋)や三韓との外交も整っていた、その頃では最もよい時代になっていたのでした。

太子は一人の飢えたる者にまで心を配られるような愛の深い人であったことが書記にも記されています。

「十二月の庚午の朔に、皇太子、片岡に遊行でます。

時に飢者、道の垂に臥せり。仍りて姓名問ひたまふ。

而るに言さず、皇太子、視して飲食与へたまふ。

即ち衣裳を脱きたまひて、飢者に覆ひて言はく、「安にふ臥せれ」とのたまふ。則ち歌いて曰はく。

しなてる 片岡山に 飯に飢て 臥せる その旅人あはれ 親無しに汝生りけめや さす竹の 君はや無き 飯に飢て 臥せる その旅人あはれ
とのたまふ。

辛未に、皇太子、使を遣して飢者を視しめたまふ。

使者、還り来て曰さく、「飢者、既に死りぬ」とまうす。爰に皇太子、大きに悲びたまふ。則ちよ困りて当の処に葬め埋ましむ。……」 

慈悲深い太子、智慧深い太子を中心にして、推古天皇と蘇我馬子とも調和されていたようで、おだやかなのびのびした生活が、上下の国民の間にくりひろげられていたのです。                                   
太子は四十九才で亡くなられましたが、師であった高麗の僧慧慈は、太子の薨ぜられたことを聞き、大いに悲しみ

「今太子既に薨じ給う、我れ国を異にすと雖も、心は断金に在り。それがし某独り生けりとも何の益があらん。我れ来年二月五日を以て必ず死なん。困って以て上宮太子に浄土に於て遇い、以て衆生を化せん」
といってその通りに死んでゆかれた、ということであります。

この師も師でありますが、これ程師僧をして敬慕せしめた太子の威徳というものは、偉大なものというべきです。

聖徳太子こそ大菩薩の化身であり、日本の天命を完うせしめるために生れられた聖者であったのです。

太子は今神界にあって、ひたすら日本に神のみ心を顕現なさろうと働かれているのであります。

今こそ聖徳太子の和の精神を日本が現わさずして、いつの日、日本に真実の姿が現われることでしょう。

そのための私たちの世界平和の祈りなのです。

聖徳太子についてはもっともっと書きたいこともございますが、今回はこの程度にして置きまして、憲法十七条を終りに附して置きます。   


憲法十七条 

一、やわらぎ和を以て貴しとし為、さから忤うこと無きをむね宗とせ為よ。人皆たむろ党有り、亦さとれるもの達者少し、是を以て、或は君父に順わず、またりんり隣里にたが違う。然るに、かみやわら上和ぎ下睦びて、事を論ずるにかな諧えば、則ち事理自ら通ず、何事か成らざらん。

二、あつ篤く三宝をうやま敬え、三宝とは(1)仏法僧なり。則ち(2)四生のしゅうき終帰にして万国のごくしゅう極宗なり。いずれ何の世、何の人か、是の法を貴ばざらん。人、はなはだ悪しきはすくな鮮し、能く教うれば之に従う。其れ三宝に帰せずんば、何を以てかまが枉れるをただ直さん。

 註1(仏)―本体平等、万物一体の原理。(法)―現象差別、物々独立して整然としてみだれざる法則。(僧)―本体即現象、差別即平等と相関調和する実相。梵語で和合の意。  
2 四生とはインド哲学でいう卵生、胎生、湿生、化生の西。即ち生きとし生きるものを四大別した称。

三、みことのり詔を承りては必ずつつし謹め、君は則ち天とし、臣を則ち地とす。天覆い、地の載せ、四時順行して、万気通ずることを得。地、天を覆わんとせば、則ちやぶ壊るを致さんのみ。是を以て君言えば、臣承り、上行えば下なび靡く、故にみことのり詔を承りては必ず慎め。つつし慎まざれば自ら敗れん。

四、群卿百寮は、礼を以て本と為よ。其れ民を治むるの本はかならず礼に在り。上、礼あらざれば、下、ととの斉わず、下、礼無ければ必ず罪あり。是を以て群臣礼あれば、位次乱れず、おおみたから百姓礼あれば、国家自ら治る。

五、むさぼり餮を絶ち欲を棄て、明にうつたえ訴訟をわきま辯えよ。其れ百姓のうつたえ訟は、一日に千事あり、一日すらなおしかり、況や歳をかさ累ぬるをや。このごろ頃訟を治むる者、利を得るを常と為し、賄を見てことわりを聴く。すなわち財有る者の訟は、石を水に投ぐるが如く、乏しき者の訴は、水を石に投ぐるに似たり。是を以て貧しき民は、すなわちよ由る所を知らず、臣たる道もまたここにか闕けむ。

六、悪をこら懲し善を勧むるは、古の良典なり。是を以て人の善をかく匿すことなく、悪を見てはかならずただただ匡せ。其れへつら謟い詐る者は、すなわち国家をくつがえ覆す利器なり。人民を絶つつるぎ鋒劔なり。また侫り媚びる者は、上に対しては好みて下のあやまち過を説き、下に逢いては上のあやまち失をそ誹し謗る。それこれらの人は皆君にいさおしきこと忠なく、民にめぐみ仁なし。こは大きなる乱の本なり。

七、人には各任あり。つかさど掌ること宜しくみだら濫ならざるべし。それ賢哲を官に任ずれば、ほ頌むるこえ音すなわち起り、奸者官をたも有つときはわざわい禍乱すなわち繁し。世に生れながらも知るもの少し、よ尅く念うて聖とな作る。事大小となく、人を得れば必ず治まり、時急緩となく賢にあ遇えば自らゆるやか寛なり。これに因って、国家永久にして、く社に稷危からず。故に古の聖王は、官の為に人を求め、人のために官を求めず。

八、群卿百寮早くまい朝りおそ晏く退れよ。(1)公事はいとまな監靡く、終日にても尽し難し。このゆえに遅くまい朝れば、(2)急におよ逮ばず、早く退れば必ず事を尽さず。 

1 監―堅牢ならざる意 2 急ぎの場合間に合わぬの意。

九、まこと信は是れ義の本なり。事毎にまこと信あれ。それ善悪成敗はかならず信に在り。群臣共に信あらば、何事か成らざらん。群臣信なく万事悉く敗れん。

十、こころのいかり忿を絶ちおもてのいかり瞋を棄て、人のとが違を怒らざれ。人皆心あり、心各とれ執るところあり。彼の是はすなわち我の非にして、我の是はすなわち彼の非なり。我かならずしも聖に非ず、彼必ずしも愚に非ず。共にこれ凡夫のみ。是非の理、誰がよく定めむ。相共に賢愚なること、(1)みみがね鐶の端なきが如し。このゆえに彼の人いか瞋ると雖も、還えりて我があやまち失を恐れよ。我ひと独り得たりと雖も衆に従ひて同じくおこなえ挙え。

1 鐶―金のイヤリング

十一、明に功過を察して、賞罰必ず当てよ。このごろ日者賞は功に在らず、罰は罪に在らず、事を執る群卿、宜しく賞罰を明にすべし。

十二、国司、くにのみやつこ国造、百姓より(1)おさめる歛ること勿れ。国に二君なく、民に両主なし。(2)そっと率土の兆民は王を持って主と為す。任ずる所の官司は、皆是王の臣なり。何ぞ敢て、公ととも与に、百姓にふれん賦歛せん。

1 歛―租税を多く取り立てること 2 率土―地のつづく限りという意

十三、諸の官に任ずる者は、同じく職掌を知れ。或は病み或は使して事にか闕くことあらん。然れども知る事を得る日には、和することかつ曽てし識れるが如くせよ。そのあずか与り聞くことに非ざるを以て、公務を防ぐこと勿れ。

十四、群臣百寮、嫉妬あることなかれ。我既に人をねた嫉めば、人もまた我を嫉む、嫉妬のわずらい患、その極を知らず、ゆえ所以に、智己れに勝るときはすなわち悦ばず、才己に優るときはすなわちねた嫉みそね妬む。是を以て五百の後、いまし乃今、賢にあ遇うとも、千載にして、一聖を待つこと難し。それ聖賢を得ずんば、何を以てか国を治めん。

十五、私にそむ背きて公に向うは、是れ臣の道なり。凡そ人、私あれば必ずうらみ恨あり。憾あれば必ず同せず、同ぜざれはすなわち私を以て公をさまた妨ぐ。憾起ればすなわち制に違い法をそこな害う。故に初章に、上下かい和諧と云えるは、それまたこのこころ情なるか。

十六、民を使うに時を以てするは、古の良典なり。故に冬の月にはひま間あり、以て民を使ふべし。春より秋に至るまでは、のうそう農桑のとき節なり。民を使うべからず。そのたつく農らずんば何をか食い、こがい桑せずは何をかき服む。

十七、それ事は独りだん断ずべからず、必ず衆と与に論ずべし。少事はこれ軽し、必ずしも衆とすべからず。ただ大事を論ずるにおよ逮びては、もしあやまち失あらんことを疑う。故に衆ととも与に相弁ずれば、ことば辞すなわちことわり理を得ん。

(以上、「「日本の心」五井昌久著、白光真宏会出版局刊より転載)

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(聖徳太子が眠る地、大阪府南河内郡太子町太子にある叡福寺


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プロフィール

三休さん

Author:三休さん
のブログへようこそ!

昭和28年東京都江戸川区  小松川の生まれ

都電の西荒川駅前にあ
った生家には、故赤塚不二
夫さんが下宿していました。

上の写真は、昭和30年5月石森章太郎さんが赤塚さんを訪ねてきた時のもの。

赤塚さんは、その2年後有名なトキワ荘に引越しました。

徒歩数分の石毛肉店には、私と一緒に住んでいた従姉と同じ深川高校に通う五月みどりがいて、この翌年に歌手デビュー。

生家の2軒隣にその数年後、横綱柏戸が引越してきました。

私は、その後両親が近所に建てた家に引越したのですが、3軒隣にラグビー日本代表だったターザン橋本(本名橋本晋一)氏が住んでいて息子が私と同級生。

息子H君はその後早稲田ラグビー部の主将。

私が小中学校時代に通ったラグビースクールで一緒にプレーした新日鉄釜石7連覇の立役者Mr.ラグビーと言われた松尾雄治君とその後早明戦で戦ったのには驚きました。

私も高校でラグビー部に入ったのですが、挫折。結局それが遠因で、精神世界に。

そして今に至るのですが、何が幸いするか分かりません。

もし、そのままラグビーを続けていれば、何がしかの世界で成功したかもしれませんが、失敗の人生を歩んでいた可能性があります。

真の意味での成功者とは、永遠不滅の至福の境地である「悟り」に達した人々のことであり、そこに向かって着実に前進している人々のことを言います。

(「悟り」「真の成功者」に関して詳細は、本ブログ記事「ホイットニーの死をバガヴァンの教えから考察する」等をご参照ください。)

まさに「人間万事塞翁が馬」。

趣味は瞑想です。

1977年から瞑想しています。      
基本的に24時間瞑想しています。
もちろん、座って瞑想するのも大好きです。

意識の内側へ入れば入るほ
ど、より覚醒し、より自由に
なってゆきます。

瞑想をとおして、
この世界のあらゆる楽しみ、
快楽をはるかに凌駕する
時間、空間を超えたこの
現象世界の源である
永遠不滅の純粋意識、
そしてその本質である
絶対的な自由と愛と至福を体験します。

多くの方にこの事実を体験を通
して知って頂きたいと思ってい
ます。

覚醒剤もドラッグもいりません! 

ただし、瞑想には、効果的で正しいやり方があります。

正しい角度で飛び込み、正しい泳ぎ方を身につけることで、スムースに海中深くに潜ることが出来ます。

それと同様で、効果的に効率よく、マインド(心)の内側深くに入り、究極的にはマインドを超越する方法が、正しい瞑想法です。

古来より覚者方より様々な瞑想法が、伝えられております。

マインド(心)は、永遠でもなく、真我(本当の私)ではありません。

その正体は思考であり、常に変化して止まず、幻影です。

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