コンビニ弁当与えた豚に奇形、死産続出!

コンビニ弁当与えた豚に奇形、死産続出! (改訂版)
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(下の写真は、船瀬俊介著「知ってはいけない!?」(徳間書店)より転載)

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厚労省の基準は、食品添加物の安全性を十分考慮して作られている?

食品添加物は、食品を固めたり柔らかくしたり、腐敗を遅らせたり色鮮やかにする為、また、コストを大幅に削減して甘味を出す為など、様々な目的で使用されています。

最新号の月刊宝島(No.732)に、厚生労働省が安全と認めた物質を安全と認められる範囲内で使用していれば、却って食中毒を防いだり、見えないカビによる発ガンを防いでくれるという論理で、食品添加物を肯定的に捉えているある学者の見解が載っていました。

その学者曰く、日本の基準は、実験動物に有害な影響を及ぼさないと言われる閾値(無毒性量)に100分の一という「安全係数」を掛け算して、添加物の一日許容摂取量(ADI)というものを定めている。

この100分の一という係数の科学的根拠は、実験動物と人間の間の種差として10分の一、更に人間の中でも性差や年齢差などの個人差を考慮して10分の一を掛け合わせる、というように慎重な対応を取っているから、安全性に問題がない旨主張しているわけです。


動物実験では、人体への微妙な影響は分からない、添加物の混合した時の影響は不明


しかし、動物実験では添加物が人間に及ぼす微妙な影響、例えば頭が痛くなったり、気持ち悪くなったり、吐き気がしたり、胃腸部の不快感、重ぐるしさ等は分かりません。

また、アレルギー反応やホルモン撹乱作用も動物実験では分かりません。

動物実験で分かるのは、急性の中毒や死亡、発ガン、臓器の異常など、はっきりした症状だけだからです。

例えば、私はタール色素(黄色4号とか赤色2号他)と呼ばれるものが入ったものを食べると(入っていることを知らずに食べても)必ずといっていいほど、気持ち悪くなって、脂汗が顔に出てくるのですが、こういった微妙な影響というのは、動物実験では分からないのです。

また、一つの食品に複数の添加物が使われていますが、それらが混合した時の影響も調査されていないのです。

更に言えば、実際、許容量が守られているかどうかも怪しい。特に、中国などアジア、米国などから輸入したものには不安が残ります。


山崎製パンに、発ガン物質臭素酸Kが使用されている

そもそも厚労省の安全基準自体が信用に値するのか?

例えば、サッカリン。1973年に米国で5%を含む餌をラットに2年間食べさせた実験で、子宮がや膀胱にガンが発生したということで、厚生省は一旦使用を禁止。

ところが、実験に不純物が含まれていて、それがガンを発生させたという説が有力になり、再び使用禁止を解除。

その後、1980年に今度はカナダで、サッカリンNa5%を含む餌をラット2世代に亘って食べさせたところ、2代目のオス45匹中8匹に膀胱ガンが発生。

しかし、厚生省は使用を禁止せず、現在も使われています。

また臭素酸K(カリウム)というのがあります。合成小麦粉改良剤・製造用剤としてパンの原料となる小麦粉に添加します。

ラットに臭素酸Kを0.025%及び0.05%含む飲料水を110週間飲ませた実験で、腎臓の細胞に腫瘍が発生。

また腹膜中皮腫というガンが高い割合で発生。更にガン生成を促進する作用もあることが判明しました。

厚労省は、最終食品の完成前に分解または除去することを条件に使用を認めています。

しかし、すべてのパンを検査して、分解除去されているかどうかを確認することは不可能なのです。

つまり、残留している可能性がないとは言えないのです。

そして現在使用されているのは、山崎製パンのみ。


消費者の健康より儲け優先の企業側論理により使用される合成添加物

他にも同様の事例がいくつもありますが、厚労省の安全基準をそのまま信用することはできません。

遺伝子組み換え食品一つとってみても、どう贔屓目に見ても安全とは言えないシロモノを安全として流通させている訳ですから。

添加物がなければ、通常2~3日で腐ってしまうものが、1週間も何ヶ月も腐らないお陰で、食べても食中毒や見えないカビ毒(アフラトキシン等)でガンにならずに済んでいる、と上記厚労省の御用学者?なら、さも消費者側に立ったように言うかもしれません。

では、合成保存料、防腐剤が添加されていれば、見えないカビ毒や腐敗が発生しないのかというと、そのようなことはありません。

いづれ、見えないカビ毒や腐敗が生じます。それを食べれば、やはり、食中毒やガンになる可能性があるのです。

腐敗する時期を遅らせているだけです。

いえ、それだけではありません。合成添加物などによる複合的な影響が加わってくるのです。

ですから、実際は、企業が在庫を長く店頭に置いて、売れ残らないように、つまり損失が生じないように添加物を大量に使用しているというのが実際のところで、消費者のことを考えて添加している訳では断じてありません。

昔はこのような添加物(特に厚生労働大臣指定の合成添加物、423種類あります。)は使われていなかったにも関らず、ガンになる人は圧倒的に少なかったのです。

食中毒も頻発していたとは思えません。(むしろ今の方が多いのではないか?)

以前の記事「マイケル「スリラー」の世界―腐らない死体、都市伝説」にも書いてあるように、このような添加物だらけの食品を食べていると、まさに死体がミイラ化してしまうのです。

もちろんそれだけではありません。以下のような事態が我々の気づかないうちに、いたるところで起こっている可能性があるのです。


西日本新聞に連載された「コンビニ弁当与えた豚に奇形、死産続出!」の記事

西日本新聞社(福岡市に本社)に連載されたシリーズを2004年3月に同社がまとめ発行したブックレット「食卓の向こう側」に以下のような衝撃記事が載っています。

(以下、記事を要約しています。)

毎日3kgづつ母豚にコンビニ弁当、おにぎりなどを与えたところ、豚の妊娠期間である114日後のお産で、死産が相次ぎ、やっと生まれた子豚も、奇形だったり、虚弱体質ですぐに死んでしまった。

透明なはずの羊水がコーヒー色に茶色く濁っていた。

母豚に与えたコンビニ食は、回収業者が持ち込んだもので、期限切れにはなっていたが、腐っていたわけではなかった、農家の主でさえ「ちょっと、つまもうか」と思うほど鮮度はよかった、というものです。

(以上、記事の要約終わり)


妊婦、乳幼児は、添加物だらけの食品を食べてはいけない

もし、これら添加物が安全であれば、上記のようにコンビニ弁当で、豚の死産が相次ぎ、奇形、流産、虚弱体質ですぐに死んでしまう等ということが果たして起こるでしょうか?

最近は、合成保存料など不使用を謳っているコンビニ弁当も増えましたが、上記ブックレットが作成された2004年以前は、まだ合成保存料や防腐剤の類は、多用されていました。

また、鮮度は良かった、という位ですから賞味期限切れとはいえ、カビ毒が原因とは思えません。

となると、考えられるのは、このような合成保存料や着色料など添加物の混合による影響です。

今でも、多くの食品にMSG(グルタミン酸ソーダ、化学調味料、たいていアミノ酸などと表示)、防腐剤や合成着色料などの添加物が多用され、危険がいっぱいです。


特に食べてはいけない食品添加物

※以下は、渡辺雄二著「食べてはいけない添加物 食べてもいい添加物」(大和書房刊)より、抜粋・転載・編集して書かれています。

亜硝酸ナトリウム(合成発色剤)ハムやソーセージなどに入っています。

アスパルテーム(合成甘味料)コーラやカルピスなどに入っています。詳細は当ブログ記事「有害データ噴出、人工甘味料アスパルテーム

アセルファムK(合成甘味料)清涼飲料水、ダイエット甘味料、菓子類に使用。アスパルテームと同様。

異性化液糖(遺伝子組み換え甘味料)「ぶどう糖果糖液糖」又は「果糖ぶどう糖液糖」等、或いは単に「ぶどう糖」などと表示。ダシ醤油、麺つゆ、アイスクリーム、清涼飲料水、詳細は「遺伝子組み換えトウモロコシを食べたマウス5~8割に巨大腫瘍が発生」。

タール色素(合成着色料)赤色〇号、黄色〇号、青色〇号、緑色〇号と表示されています。夏場気をつけなければいけないのは、カキ氷に使われているシロップ。ほとんどタール色素です。

安息香酸、安息香酸Na(合成保存料)マーガリン、シロップ、醤油、清涼飲料、果実ペースト、キャビアなど。

ウコン色素(天然色素)通常ターメリックと呼ばれるもので、ウコンから色素だけを抽出したもの。マウスに対して、体重1㎏あたり2gを口から与えるとその半数が死亡する急性毒性の実験結果があります。カレー粉に含まれるウコンは問題ありません。

カラギーナン(天然増粘安定剤)増粘多糖類の一種。しゃぶしゃぶのたれ、ドレッシング、スープ、ソース、ゼリー、豆乳、乳飲料、果実飲料、デザート食品などに使用。

サッカリンNa(合成甘味料)デパ地下などで売られているにぎり寿司など。

臭素酸K(合成小麦粉改良剤・製造用剤)パンの原料となる小麦粉に添加。発がん性あり。現在使用されているのは、山崎製パンのみ。菓子パンには不使用のようです。

スクラロース(合成甘味料)ダイエット甘味料として、清涼飲料水、サプリ飲料、ドレッシング、デザートなど。使用が認可されてからまだ10年足らずで、不明な点が多い化学物質です。採らない方が無難。

途中ですが、この続き書き足します。とりあえず、アップします。

※以上の文章は一部、渡辺雄二著「食べてはいけない添加物 食べてもいい添加物」(大和書房刊)及び船瀬俊介著「知ってはいけない!?」(徳間書店)を参考に書かれています。

最近、上記記事の元になっている西日本新聞社の「食卓の向こう側・第2部「命」つなぐために」にが見つかりましたので、リンクを貼っておきます。

http://web.archive.org/web/20040417105149/http://www.nishinippon.co.jp/news/2004/shoku/shoku2/03.html


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昭和天皇は輸血で“殺された”!

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輸血や血液製剤の副作用で毎年10万人が死んでいる!!

当ブログではこれまで、現代医療や環境問題など、主に船瀬俊介さんの著書を通してお伝えしてきましたが、今年(2013年)2月に出版された船瀬さんの本「日本の真相!」(成甲書房)に、私達の常識を覆す驚愕の情報がいくつも載っていました。

その中からいくつかご紹介させて頂きたいと思います。

先ずは、輸血の危険性について。

輸血によって、C型、B型肝炎に感染したり、血液製剤によってHIVに感染したり、このような事例はこれまでも枚挙に暇がありません。

私の母なども若い頃ある病気で手術を受け、その時の輸血が原因でC型肝炎に感染して、慢性肝炎、肝硬変、肝臓がんと進んでいって、最後は抗がん剤で殺されました。今から20年前の話で、母69歳でした。

日本では、C型肝炎持続感染者は200万人以上、米国では400万人以上と推定されています。

今回船瀬さんが告発したのは、そもそも輸血そのものが無意味どころか超危険な行為だったという衝撃の事実です。

輸血というのは、輸血された患者本人の血液からすると他人の血液は異物なので、その結果、血液同士が喧嘩状態になり、最後は拒絶反応によるショックで100%死を招く輸血ショック症候群(GVHD)を引き起こすのです。

船瀬さんの記事の中である医事評論家が、「輸血や血液製剤の副作用で毎年10万人が死んでいるはず」と語っています。

でも輸血しないと出血多量で死んでしまうのでは、と思いますが、なんとリンパ球レベルで30%になっても死なないとのこと。

ある男性は、2.5リットル採血後、十分な塩水を与えられ、自転車に乗って帰っていったそうです。

つまり、出血しても塩水を飲めばOK!なのです。

海外のA・J・シャドマン博士は、2万件も無輸血手術で死亡例ゼロとのこと。

しかし、それだと、日本赤十字社や血液製剤メーカーなどの血液利権者たちは儲からないので、船瀬さんによると、GVHDの存在は血液利権者らに完全支配されているマスメディアによって隠蔽されてきたと。

よってこのGVHDについては、多くの医者が知らないといいます。

本タイトルになっている昭和天皇は、輸血で殺されたのですが、おそらく担当医師たちはこのGVHDのことを知らなかったのでしょう。

以前の記事「医療の実態、製薬会社の指針で薬漬けに」でも取り上げましたが、大学医学部で何を勉強するかといえば、「『病名』『薬品』などを覚えるだけ。

そして「治療法」は、製薬会社や学会が作った『治療ガイドライン(指針)』に従ってするだけです。

このような医者が日本の最高学府(特に私大医学部はヤクザビジネスと言われています。)で粗製乱造されているのです。

またこの点について書きたいと思っています。それでは、船瀬さんの本「日本の真相!」(成甲書房)から本題の部分を抜粋転載させて頂きます。

(以下、転載開始)

昭和天皇を“殺した”「輸血」

「昭和天皇は輸血で“殺された”!」  こういえば「何をバカなことを」と一笑に付されるだろう。
 
ところが医事評論家T氏は断言する。

「昭和天皇が死のまぎわ、体内出血と下血で連日ニュースになりましたね。あれは、ひっきりなしに大量輸血していたからです」

「輸血」といえば、それは救命措置だとわたしたちは学校で習った。
 
ところが、その輸血が結果として天皇の命を縮めた!

「輸血は臓器移植と同じである」。

医学教科書に、はっきりと書いている。

「……もっとも頻繁に行われている“臓器移植”である(『インターネット百科事典Wikipedia』

他人の臓器を移植すれば、生体内の免疫システムが、拒絶反応を起こす。

「でも、血液型で合う合わないを決めるから安心じゃないの?」と、ふつうは、そう思う。

しかし、それは間違いだ。医学専門家は断言する。

「血液型は指紋と同じ、一つとして同じものはありません」
 
だから、A、B、AB、O型の四分類は、あくまで大ざっぱな大別にすぎない。

同じ血液型でも、他人の血液(非自己)が体内に侵入すると、免疫細胞は攻撃を開始する。
 
同時に輸血された血液細胞からみれば、患者の血液は他人の血(非自己)なので、輸血された血も、患者を攻撃する。
 
つまり、輸血をするということは、からだの中で“血液の大喧嘩”が起こりかねないのだ。


死亡率100%!輸血ショック症候群(GVHD) 

昭和天皇は、最後は輸血による拒絶反応で命を落とした可能性が高い。この症状を知る医者は少ない。

それは、輸血ショック症状、正式には「移植片対宿主反応(GVHD)と呼ばれる。

「治療として輸血、血液製剤投与や骨髄移植などが行われたときに発症する」
 
その発症メカニズムは―

「輸血した血のなかのリンパ球が増殖して、患者(宿主)のリンパ球や細胞内皮系(免疫系細胞)を攻撃したときに起こる症状。発症すると100%助からない」(医学専門書)
 
つまり、「移植片のリンパ球が生き続けると、このリンパ球は、移植を受けたひとを「非自己」とみて排除しようとする。

こうして宿主(患者)の血液に入った移植片のリンパ球が増殖し、全身にまわると、宿主の組織は主要組織適合抗原という目印がついているので、これを攻撃し、いろいろな症状が起こってくる」「『家庭の医学大辞典』」
 
その症状は―「輸血や骨髄移植後、しばらくすると、皮ふの表面全体に赤い斑点があらわれ、高熱が出る。

下痢、肝臓障害が続発。あらゆる血球が減少し、貧血により衰弱。それだけでなく感染症や出血がおこりやすくなる」

「約1カ月後には、多くの臓器が障害され(多臓器不全で)死亡する」(同書より要約)。
 
恐ろしいのは「有効な治療法がない」ということ。内海聡医師(内科医)は、証言する。

「免疫系がパニックを起こして目茶苦茶になった状態。内臓不全などにつながり絶対助からない」


血液型が同じでも致命的副作用が起きる!


輸血には、このような致命的副作用が隠されている。血液型が同じでも起こり得る。

しかし、このGVHDを全く知らない医者も多い。恐ろしい話だ。

このGVHD症状を具体的に見てほしい。

「あらゆる血球が減少」とある。これは、いわゆる「貧血」症状だ。輸血したのに血球が減って「貧血」になる!

 医者はさらに焦って輸血する。すると……また「貧血」は悪化する……さらに輸血……。恐ろしい悪循環だ。

輸血がさらに致命的症状を悪化させる。「何がなんだか、わからない」

医者はパニックになる。

患者は地獄の苦しみへ突き落とされる。

さらにGVHD症状に「出血が起こりやすくなる」とある。
 
あらゆる血球―赤血球、白血球、血小板などが激減する。だから、血が固まりにくくなり、出血が加速される。
 
昭和天皇の最後の症状が、出血の連続だった。

医師団は必死で輸血を続行する。すると、出血はさらに加速され……最後は穴のあいたバケツに水を注ぐような状態に……。

恐怖の悪循環で天皇の末期症状は、下血につぐ下血でついに亡くなった。
 
このように昭和天皇はGVHDを発症した疑いが濃厚である。

むろん医師団は、日本の“象徴”を輸血によって“殺そう”としたわけではない。
 
彼らは近代医学の粋を尽くして、天皇の生命を救おうと連夜奮闘したのだ。

しかし、その輸血が、じつは天皇の直接死因となったとすれば、なんとも皮肉としかいいようがない。


交通事故死か、はたまた輸血ショック死か?

この死亡率100%の輸血拒絶死は血液型が“適合”でも起こり得る。

血液型4分類などGVHD防止には、まったく意味をなさない。

「だから交通事故の医療統計など、根本から見直すべきですよ」と、前出の医事評論家T氏は言う。

交通事故の被害者は救急車で病院に搬送される。

たとえば事故で足に重傷を負って出血がひどい。医者は、すぐに血液型を検査し、“適合”血液の大量輸血を実施。

しかし、患者はショック症状を起こして死亡した。
 
医師は「失血性ショック死」と死亡診断書に記入するだろう。しかし、死亡原因は、本当に出血によるものか? 

じつは輸血された血液の拒絶反応GVHD症候群で死亡したのではないか? 

つまり、本当の死因は、輸血性ショック死。すると、交通事故死ではなく、医療過誤死になる。
 
ちなみに毎年1万人近くが交通事故で死亡している。

そのほとんどが外傷を負い、出血し、輸血を受けたとすると、GVHDによる死亡者も相当数にのぼるはずだ。

その他、病院の医療現場でも、外科手術などで輸血が日常茶飯事となっている。
 
手術後、容体が急変して亡くなった―とは、よく聞く話。それは、輸血によるショック死の可能性が高い。
 
しかし、この恐怖のGVHD症候群の死亡は、ほとんど闇に隠されたままだ。

それは交通事故死で処理されたり、原疾患(もともとある病気)の悪化による死亡とごまかされてきた。
 
この悲劇的ショックを起こすのは輸血だけではない。

血液製剤も同じだ。さらに、骨髄移植なども同じ恐怖の拒否反応を起こすのだ。
 
これらは製薬会社の稼ぎ頭。その致命的欠点を、かれらが自ら明らかにするわけがない。

「有効な治療法はない」「発症したら100%死亡」―このGVHDの戦慄事実を忘れてはならない。

T氏は断言する。
「おそらく日本では、毎年、輸血や血液製剤による副作用で10万人は死んでいるはずです」
 
この恐怖のGVHDの存在は、マスメディアなどにより完全に隠蔽(いんぺい)されてきた。

それは、メディアが日本赤十字社や血液製剤メーカーなど、“血液”利権者たちに完全支配されてきたからにちがいない。

“かれら”こそまさに吸血ビジネス―バンパイアのごとく血液を漁って巨利をむさぼってきたのだ。
 
後述のように「輸血しなければ助かった」という例は非常に多い。

輸血の正体は―救命医療ではなく、急殺医療―であった。


塩水を飲ませれば、それでOK!

ここまで書くと、「いや、しかし……」と反論する向きもあるだろう。

「輸血で命が助かった、という例も多いじゃないですか!?」

そのとおりだ。しかし、それは輸血で助かったのではない。

助かったのは水分補給と電解質(ミネラル分)の補給による。

だから、他人の血液を入れる必要はまったくなかった。

生理食塩水を点滴すればすんだのだ。それどころか、コップに塩水を入れて飲ませれば、それですんだ。

じっさいに「無輸血で2万件の外科手術を行ったが、1人の死者も出さなかった」と胸を張る医師もいる。

彼はあっさり言う。出血しても塩水を飲ませれば、なんの問題もない。

しかし、バンパイア産業にとってコップの塩水で治ってもらっては困る。
 
輸血不要論の声は、医療専門家のあいだでも大きくなっている。

「血球成分は大幅に減っても人間は生きられる。その証拠として、がん患者でリンパ球レベルが約30%になっても、ちゃんと生存している」

さらに、顆粒球など血球は大出血で失われても1時間で2~3倍にも激増する。

だから、1リットル出血したから、1リットル輸血する……など、小学校の算数のような発想は実にコッケイなのだ。

さらに、「人間は血液の2分の1(約1.5リットル)を失うと死ぬという従来の“理論”も怪しい。

ある文献では1回に2.5リットルを採血後、自転車で帰っていった男性の例が記載されていた。

彼には採血後、十分な塩水が与えられたという。

「水分とミネラル補給」だけなら生理食塩水(リンゲル液)だけの補給で十分に、人体は生き長らえる。

人体の血漿(けっしょう)は海水を約3倍にうすめたものとミネラルバランスは等しい。

生命が海から生まれた証しだ。血潮とは、よくいったもの。

ならば、輸血の代わりに海水を3倍にうすめて注入すればすむ。

もっとアッサリいってしまえば、患者に塩水を飲ませれば、それでよい。
 
ただ、それだけの話だ。しかし、コップの塩水が輸血の代わりになるなら、医者も製薬会社も儲からない。


吸血鬼(バンパイア)産業にとっては金のなる木

「輸血も、血液製剤もものすごく儲かるんですよ!」

内海医師(前出)も断言する。「輸血用の血液なんて、タダ同然です」

「それが血液製剤フィブリノゲンなどは50万円もする。

免疫グロブリンでも10万円はします」。病院はボロ儲け。

「それで、効果など、まったくないといっていい!」「医者のほとんどは気分で打っている」(笑)。

そういえば血液業者は、海外からの輸入血液を「ゴールド・ブラッド」「ダイヤモンド・ブラッド」などと呼んでいる。

吸血ビジネスほど、ぼろい儲けはないのだ。

「輸血のことは、まったく医学界でも、盲点中の盲点です。まともにこの問題を考えた医者など皆無でしょう」と内海医師は、首をふる。

出血したなら輸血と、子どもの引き算・足し算の感覚でやってきただけだ。

ところが、そこに“拒否反応”など戦慄の恐怖が潜んでいた。輸血も血液製剤も、他人の臓器を注入しているのだから免疫拒否が起こるのがあたりまえ。

臓器移植患者がなんとか生き延びているのは、免疫抑制剤を毎日投与しているからだ。それは死ぬまで欠かせない。

(以上、転載終わり)


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超越瞑想入門 by マハリシ・マヘーシュ・ヨーギー

人生に光明をもたらした1冊の本との出合い

最近公開された映画「奇跡のリンゴ」を見てきました。大変感動しました。

内容を要約すると―

主人公の木村秋則さん、奥さんの農薬による健康被害を何とかしようと古本屋を探すうち、自然農法の福岡正信さんの本に出会い、無農薬栽培を試みるも、失敗続きで10年が経過。

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家計はどん底に、最後は山に入って自殺を試みたのですがこれも失敗。

ところがその時に、無農薬栽培成功に繋がるヒントが・・・。この辺は、まさに神の恩寵があったとしか思えません!是非映画を見てください。

ということで、誰にも、人生を変える出会いがあるかと思います。それが人であったり、本であったり。

私の人生における最大のエポックメーキングな出来事といえば、マハリシ・マヘーシュ・ヨーギー著「超越瞑想入門」(読売新聞社)との出会いです。

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(昭和46年5月に第一刷、52年1月に改訂第1刷が出ています。当時の訳者は、十菱麟氏)

1977年の春、当時通っていた神田の大学近くの古本屋でこの本と出合いました。


盛岡での神秘体験

丁度、その半年位前に、岩手県盛岡市郊外の友人宅で、偶然に非常に深い瞑想体験が起こり、心の内奥に、時間と空間を超越した次元がある、ということを直観しました。

その体験は、非常に深い静寂と至福の体験であった為に、この体験が一体何だったのかを解明したいという欲求と、その後何となくヨガや瞑想でこの体験を再現出来るのではと感じ始め、書店でヨガの本などを漁っていました。

しかし、これだというものがなく、神田から水道橋駅近くの書店まできて、今日はここが最後だと見て回っている時に本棚に1冊、背表紙の黄色のカバーの中のマハリシの写真が目に飛び込んできました。

また超越瞑想というタイトルにも惹かれ手に取りページを捲ると、最初のページから、そこには、まさにそれまで自分が求めていたものに対する答えが書いてあったのです。

そして最初の第1章「科学的現実」の「存在とは何か?」の部分の2ページ目に書いてあった一文を読んだ時の感激は今も忘れられません。


「存在」とは至福意識である

そこには、次のように書いてありました。

『体験によって、「存在」とは至福意識 bliss-consciousnessであり、あらゆる思考と万物の本源であることが明らかになります。』

この「存在」とは体験で至福意識である、という箇所は、自分が体験していた部分でもあり、すんなりとこの言葉の意味が心の内奥に入ってきました。

自分が長きに亘って捜し求めていたものはこれだ、とその時の喜びは言葉では言い表せません。

それから、早速本を読み始めたのですが、内容はとにかく素晴らしいの一言。しかし、どこまで読んでも瞑想のやり方は書いてありません。

本のまえがきには、瞑想アカデミーがインドの北部、リシケシにあると書かれていて、結局、インドに行かないと瞑想が習えないのかと、実際インドに行くつもりでいました。

ところが、見逃していたのですが、本の最後の方に、日本にも瞑想センターがあり、そこで瞑想が習えることが分かり、1977年5月末頃、当時東京駅八重洲口にあったセンターに行って、最初の説明を受けました。

私としては、インドまで行って習おうとしていた位ですから、瞑想を何がなんでも習得するつもりでいましたが、最後の方で、瞑想を習う為の費用として学生は1万5千円掛かります、と言われ一瞬躊躇してしまいました。(笑)

こういったスピリチャルなものは、ただ(無料)という思い込みがあったことももちろん関係しています。(今でも、インド人などはそうです。)


超越瞑想を習う

その10日後位の日曜日に千葉県の市川で、実際に瞑想を習いました。

瞑想の体験は、以前の記事「これまでの私の瞑想体験」にも書いたように大変素晴らしいものでした。

瞑想を習った後、トイレの鏡を見て目の輝きが全然以前と違うのには、我ながら驚きました。それまでは、死んだような目だったのです。

またそれまで雑念だらけで、注意散漫状態だったのが、物事に対する集中力が全然違っていることにも驚きました。

そして翌日から、ハイな状態になって、この感覚は、小学生の時、夏休みに入ってゆくときの、あの解放された感覚だ、とそれ以来今でも1日2回欠かさずに実践しています。

前回の記事「幸せなお産が世界を変える&バガヴァンの教え(2)」の中で、私は「西洋科学主義の根幹にあるのは、唯物論的なものの考え方です。」と書きましたが、来るべき黄金時代に向かって、物理学が進歩するに従い、おそらくこの唯物論的な考えが消えて無くなる日が来るのではないかと思います。

それでは、以下マハリシ・マヘーシュ・ヨーギー著「超越瞑想入門」(読売新聞社刊、マハリシ総合研究所監訳)
第1章から一部抜粋転載させて頂きます。

(以下、転載開始)


第一章 科学的現実 

自然科学の教えるところでは、この天地万物はいくつかのエネルギーの層から成り立っていて、一つの層の内側にもう一つの層があるということになっています。

そして、もっとも微妙・微小な層がいちばん奥にあるというのです。

かつて、物理学が二つの基本法則に支配されていた時代がありました。

つまり、エネルギーの不滅と質量不変の法則です。

エネルギーも物質も、それをあらたに創り出したり破壊したりできないと信じられており、ともに総量は別々に保存されるという考えでした。

当時は、原子が物質の最小粒子であるとされ、不変不滅のものと見られていました。 

相対性理論の出現とともに、こういった考えにも大きな変化がおこりました。

物質もまたエネルギーの一形式だということがわかり、物質がそれだけ単独に保存されるということはない、ということがはっきりしました。

放射エネルギーから物質を創造することができ、また物質を「破壊」して放射エネルギーに変換することも可能だが、形式はともあれエネルギーの総量は不変である、という考えにかわってきたのです。

したがって、天地万物は不滅のエネルギーから構成されている、ということになりました。
 
ところが、分割不能の原子という考えも、その後訂正されねばならなくなりました。

核物理学の発見により、あらゆる原子は少数の素粒子から成るということがわかりました。

安定性をもったプロトン(陽子)とエレクトロン(電子)、それに不安定なニュートロン(中性子)などです。

これらの微粒子は、原子よりもさらに微細な基本的レベルに属しています。
 
最近の数か年で、素粒子の数についてのわれわれの知識は、急速に伸びてきました。

次から次へと新しい不安定な粒子が発見されるようになりました。

現在の物理学が直面している状況として、このような素粒子さえいまでは「素」と考えられなくなっています。

そのまた奥に、物理学者たちはさらに微細な物質の状態をさぐろうとしています。

現在の「素粒子」を分割した超微粒子がまだあるというのです。

このように、物理学の探求は、物質またはエネルギーのいっそう微妙な状態に向けられております。
 
物理的世界を、私たちは「相対世界」あるいは「存在の相対領域」と呼ぶことにしますが、この世界にはいくつかのエネルギー形態があることが知られています。

これらの形態は物理学の法則に従って永遠に変化を続け、交互に形を変えています。

(A、B、Cの三形態があれば、A→B、B→C、C→A、C→B、B→A、A→Cというふうに)。
 
物理学の探求が続けられるにつれて、なにか根本的なエネルギー形式が一つ存在するのではないか、という考えを科学者たちが抱くようになってきました。

つまり、絶対的に安定しており、どのエネルギー形態よりも微妙なものがあるのではなかろうか、という考えです。

そうなると相対世界はこの絶対エネルギーの動揺形式として現われていることになり、あらゆる形式の物理エネルギーは、この隠れたエネルギーの絶対相が現象界にあらわれたものと見ることができます。
 
この絶対相があらゆる物質とエネルギーの本源であります。

その状態はあまりにも精密微妙であるために、物理学ではとらえようもない、ということはおわかりでしょう。

想念エネルギーというものすら、こんにちの物理学ではつかみようのない微妙なものです。

わかりきったことですが、人間の想念には、その一つ一つにエネルギーを含む一つの過程(プロセス)があります。

遠方に思念を送るということは、日常的な現像ではないにしても、テレパシーとも呼ばれ、超心理学で認める一つの「事実」となっていますが、これも「思念エネルギー」という概念を証拠立てるものです。
 
思念エネルギーの基礎を、私たちは「存在」の状態と呼んでいます。したがって、「存在」と「絶対」は同義語になります。
 
宇宙万物の微妙層に関する物理学の知織が伸びるにつれて、人間の能力はわずか数か年前に空想したことよりも、さらに奥深くまで届くようになりました。
 
物質とエネルギーの微妙層についての私たちの知織が、物質科学の諸発見を通じて増大してゆくにつれ、この新しい知識からさまざまの利益を引き出すことができます。

私たちの生活はますます包括的になり、より力強く、より便利になります。

野心や抱負も拡大され、さらに創造的な充実した生き方ができるようになります。

天地創造の根本である絶対エネルギーについての知織が増大してくると、地上人類の文明もいまだかつて夢想すらしなかった栄光を迎えるようになるでしょう。
 
物理学が前にのべた微粒子のより精妙な層をつぎつぎ探求してゆくと、かならず隠された存在相にぶち当たるはずです。

それはエネルギー粒子のもっとも微細な相の、そのまたかなたに横たわる「実在」の世界です。

科学は必ずや、「実在」を一つの科学的現実として認め、宣言することになるでしょう。まったく、それは時間の問題です。
 
しかし、将来の物理学者が科学のさいはての地に「実在」を確認する時まで、どれだけ長い時間がかかるにせよ、人間はいつまでも、この究極の「現実」を直接体験することができないという状態にとどまっていてはなりません。

なぜなら、この「現実」こそ人生の根幹を成すものであり、これを実現することによって、人生はあらゆる面で輝かしいものとなるからであります。


存在とは何か? 

相対界に存在する万物のもっとも微妙な層の下に、抽象的かつ絶対的な純粋「存在」の世界があります。

これは外にあらわれることのない超越次元であります。これは物質でもエネルギーでもありません。

それは純粋な「存在」であり、純粋実存の状態です。

この純粋実存の状態は存在する万物の根底に横たわっています。

あらゆるものは、この純粋実存、あるいは絶対「存在」の表現であり、逆にこの「存在」はあらゆる相対生活の本質成分であります。

この唯一の、永遠にして隠微な絶対「存在」が形をとって、天地間の数かぎりない生命体となり、存在物となるのです。

天地万物の究極現実としての存在 

つぎに、この「存在」を私たちがよく知っている人生の種々相のすべてと、どのように結びつけて理解したらよいのか、という疑問がおこります。

世間との関連において「存在」を知ることができるものでしょうか? 

われわれが生活している形式と現象の世界と「存在」との関係はどんなものでしょうか? 

実際にあるものと実存とはどのように区別できるのでしょうか?
 
実存とは抽象ですが、実在するものは具体的です。

実存とは「生」そのものだが、実存するものは、永久不変の実存現実の現象面(変化してやまない)である。といってもよいでしょう。

実存は生命の抽象的基礎であり、その上に具体的な生命構築がのっているのです。

この生命構築には個人のあらゆる面―肉体、心、思考、会話、行為、ふるまい、周囲を経験し、これに影響を与えることなどと、宇宙的実存のあらゆる面が含まれています。

生命は種々の生活法となって現われます。生活は生命の表現であり、実存するものは実存の表現です。

「在る」(ある)ものは「存在」の表現であります。

実存、生命、あるいは「存在」は、実存し生活し存在するすべてのものの隠されたリアリティーです。

「存在」はかつて在り、いま在り、未来に在るすべてのものの究極の現実であります。

それは永遠で限りなく、宇宙生命のあらゆる現象的実存の根本になっています。

それはすべての時間、空間、因果関係の本源でもあります。

それは実在のすべてであり、全能なる創造主の英知がはたらく永遠の「場」であって、万物にあまねくいきわたっております。

我はこの「永遠存在」であり、汝(なんじ)もまた「それ」であり、生きとし生けるものはすべてその本質において「永遠なるそれ」であります。

「存在」とは生命であり、実存です。

「ある」ということは生きること、実存することです。

「存在」または実在は、生活の種々面、すなわら、考え、話し、行ない、経験し、感じることに表われています。

人生のあらゆる面の根源は「存在」にあります。

「存在」が天地万物の究極的本質的構成要素であるということを悟りますと、人生のあらゆる面が絶対実存という無限次元にまで高められてきます。

相対的生活のなかに絶対相が色濃く滲(にじ)みわたるようになり、その結果、安定性と永久性が相対界にひろがってくるようになります。

エネルギーと知性と創造性は無限の価値に高まり、有限だった個人生活も無限の宇宙存在に引き上げられます。

「存在」が天地万物の究極現実であるということを知れば、そのような栄光が伴うのであります。

体験によって、「存在」とは至福意識 bliss-consciousnessであり、あらゆる思考と万物の本源であることが明らかになります。

それは相対的実存のかなたにあり、そこでは経験の主体つまり心がみずからを完全に意識した状態で、いわば「目ざめきった」状態にありますが、なにかの対象物を経験するということはないのです。

意識の心は、あらゆる思考の根源である“純粋意識”の状態に達します。

「絶対者」の全能なる創造的知性はあらゆる知性の本源であります。

「存在」はあらゆる力の源泉です。

それはまた、全自然界と天地間の種々雑多な形態と現象を維持する、さまざまの自然法則のみなもとでもあります。

「存在」の本質は、前にも述べた絶対の至福意識*です。

人生の根本である絶対的至福意識を知らない人生は、土台のない建築のようなものです。

「存在」を意識しない相対界の生活は、かじを失った漂流船にも似て、荒れ狂う嵐の海のまにまにただよって行くだけです。

それはまた、風に散らされた秋の落ち葉のように、風の好き勝手な方向にあてどもなく飛んでゆきます。

「存在」を悟ったことのない人間の生活は、根底がなく、無意味で、実を結ぶこともありません。 

*英語ではbliss-consciousnessという。blissは「至上の幸福」とか「天国の喜び」とかいう意味であるが、原注にはサンスクリットのSat-Chit-Anandaという語が与えられている。Satは永遠不易の意、Chitは意識、Anandaは至福とある―訳注。

「存在」は人生の根本であり、人生は意義を与え、実を結ばせるものです。

「存在」は神の生ける存在、人生の真実です。

永遠の真理であり、永遠の自由のなかに住する「絶対者」であります。

(以上、転載終わり)


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幸せなお産が世界を変える&バガヴァンの教え(2)

医者はヤクザや強盗よりタチが悪い

最近、近所の書店に行ったところ、慶応大学医学部講師の近藤誠氏の本が、売り上げベスト10の中に2冊(1位と4位)、他の1冊もベスト15に入っていて驚きました。

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いづれも抗がん剤や医薬品の危険性、現代医療のペテン性、出鱈目を暴いている内容です。

私もこのブログで、船瀬俊介さんの著書などから抗がん剤や医薬品、ワクチンの危険性・有害性を紹介してきましたが、ようやく多くの人々が、この現代医療の犯罪性に気づきだしてきたようです。

近藤誠氏は、医師の立場から1988年に月刊「文藝春秋」で、乳がんはきらずに治る―治癒率は同じなのに、勝手に乳房を切り取るのは、外科医の犯罪行為ではないか」という論文を発表したり、「新・抗がん剤の副作用が分かる本」(三省堂)等の著書で抗がん剤の有害性とその背後にある利権構造を告発した最初の人物です。

昨年は、これまでの勇気ある告発が認められ、第60回菊池寛賞を受賞されました。

この方大学では不遇でした。年齢的にいって、とっくに教授になっていてもおかしくないのですが、講師のままでした。医学界の腐敗した実態を暴露してしまった為に相当迫害されたようです。

私もベスト1位になっていた「医者に殺されない47の心得」(アスコム)を買いました。

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その前書きに「医者はヤクザや強盗よりタチが悪い」と強烈な一文が書いてありました。

「ヤクザは、素人衆を殺したり、指を詰めさせたりすることはありません。強盗だってたいていはお金をとるだけです。

しかし、医者は、患者を脅してお金を払ってもらった上に、しょっちゅう体を不自由にさせたり、死なせたりする。」


拝金主義が蔓延った理由

前回の続きとして今回も取り上げる「幸せなお産が日本を変える」の中で、著者の吉村正氏は「西洋科学主義がお産をダメにした」と語っていますが、西洋科学主義の根幹にあるのは、唯物論的なものの考え方です。

唯物論は、霊や神の存在を否定します。

また、この宇宙に働くカルマの法則(仏教では因果応報として知られています。)に対しては、全く無知です。

物理学では、作用と反作用として知られている法則と同様の法則が、人間の行為に対しても働いているという厳然たる事実を現代科学では知りようがありません。

自分のした行為の結果が、何日後、或いは何十年、何百年も経ってから返って来るなどということは、今の科学では解明しようがないからです。

この唯物的な考えが、どうせ人間死ねば終わり、今(今生)さえ良ければ何をしてもいい、お金さえ儲かればいい、自分や自分の家族さえ良ければいい、という刹那的で、拝金主義のエゴ・ワールドを作ってしまったのではないか。

例えば中国の共産党幹部やユニクロのようなグローバル企業のトップが労働者が汗水流してもたらした富を独り占めにしたり、ウォール街のギャンブラーたちが実体経済を滅茶苦茶にして世界中の人々の富を収奪したり、オレオレ詐欺師が老人を騙してお金を奪ったり、ハッカーがコンピューターを使ってお金を略奪したり等々。

※「不労所得は、不幸を招く?!」というサブタイトルで以下の記事を書いています。ご参照ください。

☆宝くじ1等当選者の8割が借金漬けの理由(1)

☆宝くじ1等当選者の8割が借金漬けの理由(2)


カルマの法則、医者たちが辿ることになる過酷な運命

これらは皆、ネガティブなカルマを作る行為ですが、医者達がそれ以上に罪深いのは、お金をただ儲けるだけでなく、患者たちを食い物にして医療や治験の名の下に殺したり、苦しめたり、不具者にしたりしていることです。

彼らは、今生ではそれなりに贅沢な暮らしが出来て快適な人生を送れるかもしれませんが、その後どうなるかまではおそらく考えたこともないでしょう。

シュリ・バガヴァンによると、この大宇宙には、21のローカ(世界、次元)が存在すると言います。

この21のローカは、大きく3つに分かれ、上の世界に7つ、下の世界に7つ、真中に7つあり、私たちの今いる世界は真中で、バガヴァンによると、現在の地球より下のローカには地獄と呼ばれる世界も実際存在するとのこと。

彼らは、この世界では合法だから何のお咎めもない、と思っているかもしれませんが、この大宇宙の法則、カルマの法則からすると、今生で警察に捕まって罰を受ける以上の過酷な運命が待っているのです。

物理学における作用に対する反作用の力は同等ですが、カルマの法則は若干違うようです。

蒔いた一粒の種は、何倍にもなって収穫されます。

それと同様で、自分の行為の応報は、等倍ではなく、何倍にもなって帰ってくると言われています。

(行為の結果が連鎖的に拡大してゆく為と思われます。)

よって、行為主体である本人だけでなく、子孫などの親族にまで何代にも亘って影響を及ぼすのです。

かつては、日本でもこういった仏教的な教えや概念は一般人にも広く知られていましたが、特に明治維新以降、徐々に西洋の物質主義というか合理主義的な考えが浸透するに従って、こういったスピリチャルな教えは廃れ、拝金主義が世の中に根を張っていったように思われます。

(世界的には、1991年のソ連崩壊以降、新自由主義或いはグローバリズムと呼ばれるものが台頭し始め、それと共に拝金主義が加速、蔓延してきました。)

今や、それが人間のお産という本来神聖な行為にまで入り込み、生まれてくる子の一生を左右する重大な時期を台無しにしているのです。

この出産時の体験が、多くの人々にその後の人生における苦しみの種となって影響を及ぼしているのです。


産婦人科病院を作ることより、飢えた民を救え

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最近のニュースによると北朝鮮の金正恩が、産婦人科病院を作ることに熱心なようです。

最新式の設備を備えた産婦人科病院が、あたかも先進国の象徴のごとく思っているのでしょうか?

彼はスイスに留学していたようで、西洋志向はその時の体験で培われたものと思われますが、遊園地などの娯楽施設はまだしも、西洋の悪しきものに無駄金を使わないで、地方で飢える民にお金を使って欲しいものです。

それでは、前回の続き「幸せなお産が日本を変える」の中から、著者の吉村正氏が「西洋科学主義がお産をダメにした」と語る部分から抜粋転載させて頂きます。

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(以下、抜粋転載開始)

いまの産科学は安全、安心か

医療が進歩して、お産は昔より、安全、安心になったといわれています。本当にそうでしょうか。

たしかにピカピカの手術室に近代的な機械をいっぱい並べ、お産を全部管理すれば、いかにも安全、安心なお産ができるような気がします。

でもそんなものはまやかしです。

いちばん安全なのは、神からもらったこの体の仕組みを最大限引き出すことです。

女性の体は実にうまくできています。

お産のときは、子宮を収縮させるホルモンや母乳を出すホルモン、陣痛の痛みをやわらげるホルモンなど、さまざまなホルモンが出ます。

お産が自然に進めば、こうしたホルモンのダイナミックな働きが見られるのです。

でも、産婦が医療機械で管理されたり、メスやはさみで切られたり、医者に怒られたり、明るい手術室のなかで恐怖を感じると、肝心のホルモンの分泌が悪くなります。

生理的なメカニズムが狂わされてしまうので、お産がうまく進みません。

その結果、陣痛促進剤などを使って、人工的にホルモンを補わなければならなくなります。

ところがこのホルモン量を調節するのがひじょうに難しい。

本来ならホルモンは脳の指令によって絶妙にコントロールされているのですが、薬として血液のなかに人工的に注入されると、母体や胎児の動きとは関係なく、ホルモンがどんどん勝手に作用してしまいます。

子宮は収縮して、胎児を押し出す。でも母体や胎児にその準備ができていなければ、赤ちゃんは生まれてきません。

そして母子ともにひじょうな苦痛をともなう難産となり、それでも生まれないので、吸引したり、鉗子(かんし)で引っ張ったりして出すことになります。

赤ちゃんは狭い産道の中で仮死状態におちいったり、激しく吸引されることで脳内出血を起こすこともあります。

医者がよけいなことをしたために、自然にまかせておけば無事に生まれた赤ちゃんが、重い障害を負い、医療訴訟になってしまうケースもあります。

なぜこれが安全で安心なお産なのでしょうか。

私のところでは、医療の介入をほとんどしなくても、安全で安心に生まれています。

自然な体の仕組みにまかせておけば、逆子や狭骨盤など産科学的に医学的処置が必要とされているお産も、ほとんどすべて何の問題もなく自然に生まれてきます。

ついでにいえば、先進国でも医者ではなく、助産婦が子供を取り上げるところが増えているそうです。

そういう国で赤ちゃんの死亡率が増えているという話は聞きません。

医療が介入すれば、安心、安全だというまやかしにだまされてはいけません。


表面しか見ない医学部の教育

私が医学生だった頃、お産について教科書に書いてあることを、必死になって覚えたものです。

本に書いてあることが正しいと教えられてきましたし、マニュアルを覚えなければ、試験に通らなかった。

いまなら、はっきり間違いだといえます。

誤解を恐れずにいえば、あんなものはお産のことを何も知らない人が書いたものです。 

それをバカみたいに覚えた者が、試験に通って医者になれる。 

バカだから覚えられるのであって、少しでも自分の頭で考えたり、疑ったりした者は医者になれません。私もそのバカの一人でした。

でも、本物のお産がバカの頭を見事に吹き飛ばしてくれた。

初めて女性のお産を見たときの衝撃はいまでも忘れられません。

本当に心臓が止まりそうでした。それまで教科書を読んだり、解剖をやったりはしていましたが、人体は汚いだけで、あまり見たいとも、さわりたいとも思っていませんでした。

ところが生身で見た女性のお産は、最高に神々(こうごう)しくて、神聖だった。

あれは男にとって神の行為そのもの、驚愕以外の何ものでもありません。

それまでお産のことは概念的に理解しているつもりでしたが、概念などというものは、実際のお産の前では、けし粒ほどの存在にもならなかった。
 
お産は神が創った精巧なメカニズムを、目に見える形で私たちの前に提示してくれるものです。

私は心底うちのめされたような衝撃を受けました。

でもその頃の私は、まだ神のやっていることに深く思いをいたらせるほど、謙虚ではありませんでした。

最初の衝撃が過ぎると、今度はお産を科学の力で征服してやりたいと思いました。いかにもコンプレックスの強い愚かな男が考えそうなことです。

だから大学病院では、女の人の大事なところをザクザク切ったり、薬を使ったりして、お産を自分がコントロールしているつもりになっていました。

結局、医学部の勉強はお産をひじょうに浅く見るための訓練であって、浅く、表面的に見なければ、お産をマネージできる人間にはならない。

いまの病院で働く産科医をつくるためには、深く感じたり、考えたりしてはいけないのです。

教科書にのっとった設問があり、それに対して、条件反射のようにパッパッと答えられる人が、私から言わせればもっともバカですが、そういう人が成績優秀者として認められ、往往にして准教授、教授に昇進していきます。

私も途中までそのレールに乗っていました。

ところが、大学院を出る直前におやじが倒れて、岡崎に戻ってきた。よかったと思っています。

私は医学の勉強をしながらも、ずっと違和感を感じていました。

本心では産科学など根本から信じていなかった。

こんな浅いところをすくっていって、どうなるのか。

そういうものに信をおく人生を送っていなかったのだと思います。

その頃はまだそれほど意識的ではありませんでしたが、私の心はもっと深いものを見ていきたいと感じていたのです。


生身の人間より数字のいまの医学

いまの医学は科学的なデータを優先します。「エビデンス・ベースド・メディスン」などといい、結果として出てきた数字で物事を判断します。

目の前の人間を見ずして、わざわざ人間を数字に置き換え、データだけで見る。まるで子どもでも思いつきそうな浅はかな考えです。 

自分が実際に体験し、その感覚を通して世の中を理解し、生きていくのが生き物の生き方ではないでしょうか。

動物はすべてそうしています。人間だけが生きるうえでいちばん大切な「感覚」を忘れて、データに走ってしまいました。

はっきり数字にあらわれなければ、信じないという学問はやめたらいいと思います。

数字では、赤ちゃんを可愛いと思う気持ちや幸せな思いはあらわせません。

まったく自然な力で生まれた赤ちゃんは、無理やり産まされた赤ちゃんとは全然顔つきが違う。

パッと見て、違いがわかります。なんという可愛い顔をしているのだろう。なんて穏やかないい顔をしているのか。でもそれは数字にはなりません。

いちばん大切な人間の感情の深い部分を考えずに、ただ数字を追い求めていても、肝心なことは何も見えてこないのです。

本当の診断とは、データを見ることではない。 その赤ちゃんがこの人間社会に生まれてきて、生涯、本当に幸せな人生を送れるかどうか、幸せな母と子になれるのかどうか、を見ることです。

それは数字を見ていてもわかりません。

たとえばよくいわれていることに、周産期死亡率の数字があります。

お産のとき、生まれてきた赤ちゃんがどれくらい亡くなるかをあらわした教字です。

あるとき、私の講演で、こんな質問をした人がいました。

「先生はいまの産科学を否定されますが、医学が進歩し、お産を支えるようになったからこそ、周産期死亡率が下がったのではありませんか」

たしかに、昔は1000人のうち40人の赤ちゃんが生まれるときに亡くなりました。

いまは1000人のうら7人くらいしか死にません。それは医学の進歩のおかげではないか、とその人は言うのです。

どこかのお医者さんか、大学の先生だったような気がします。

私は思わず「バカを言え!」と言ってしまいました。40人死ぬはずが、7人に減ったとしても、そのことは幸せか?

自然に生まれれば死んでいた命を、医学の力で無理やり生かし、いっぱい管につないだり、あちこち切ったりして、延命させたところで、はたしてそのことで人類の幸せが増したことになるのか? 

40人死んでいたときのほうが、よほど子どもはうまく育っていました。

医学が人の命にどんどん干渉し、人間は長生きできるようになりましたが、だからといって前より幸せになれたとは言い切れません。

原始的であったほうが、人としては幸せだったかもしれない。

数字だけ見れば、40人死ぬより7人しか死なないほうが、進歩したような気がします。

でも、それはたんなる数字のまやかしです。幸せ度ではかれば、どちらが幸せかわからない。数字では中身がわかりません。

大切なのは、赤ちゃんが死なないことだけではなく、幸せに生きることです。

死ぬべき命を助けるのが、無条件にいいことだと考えるのは医学の傲慢です。死ぬ者は死に、生きる者は生きる。

生死を決めるのは医学ではない。神です。人間が勝手な思惑と勝手なエゴで、神の領域をおかしてまで、命を操作し、得意になっているのは生命に対する冒瀆ではないでしょうか。

私は、「エビデンス・ベースド・メディスン」など信じません。私が信じるのは、この目で見て、心で感じた感覚だけです。


妊婦を不安にさせる産科学 

いまの医者は妊婦を不安にさせるようなことばかり言います。

あれをやってはいけない、これをするとこんな問題が起こると、マイナスなことばかり言っておどかす。

間違っても「あなたは素晴らしい。何の問題もありません」などと言うことはありません。

そんなことをして、もしお腹のなかの赤ちゃんに何かあったら、「あんたはやぶ医者だ」とか「ちゃんと注意してくれなかったから、こうなった」と批難され、最悪の場合、医療訴訟を起こされてしまう。

それが怖いからです。とにかく、悪いことを言っておけば、間違いない。

そうすれば何かあっても、「あのとき私はこう注意しましたよね」といちおうの責任逃れができるからです。 

だから妊娠すると、医者から恐ろしいことをたくさん言われます。

妊婦は心配になって、ビクビクする。病は気からと言われるくらいですから、おどかされると、どこかおかしいところが出てきます。

妊娠したネズミを、いつもビクビクとストレスがかかる状態におけば、妊娠が順調に進みません。

医者がおどかせばおどかすほど、おかしくなって、そうすると医者は薬をたくさん出せます。

入院させたり、手術もできます。医者はもうかってしかたありません。

産科医がみなそうたくらんで、わざとやっているとは思いませんが、結果として、妊婦を「ビクビクさせていることは事実です。

ビクビクして心配だから、家でゴロゴロ安静にしている。暇だからパクパク食べる。

安産の大敵であるゴロゴロ、パクパク、ビクビクの状態を医者が率先してつくり、リスクの高いお産を生み山しているのです。

だいたい、医者にしてからがビクビクしています。教科書には恐ろしいことしか書いてありません。

逆子の何十パーセントかは正常に生まれるが、残り数パーセントにはこんなリスクがある、と書いてある。

すると、もうその数パーセントにしか頭がいきません。

逆子の妊婦が来ると、医者のほうはもうビクビクもので、その教パーセントのリスクを避けたいがために、早く帝王切開をしようとします。

患者のためではない。自分が訴えられたり、批難されたりするのが怖いから、自分のために医学的な処置をするのです。

しかもそのほうがものすごくもうかるわけですから、もうこちらを選択しない手はありません。

なぜ医者はあんなに妊婦を叱ったり、不安にさせるのでしょうか。

たとえ不安なことがあっても、そこは医者が自分のなかにしっかり受け止め、妊婦に対しては「大丈夫、大丈夫」と安心させながら、お産を上手に導くのが医者の務めではありませんか。

でも、叱るといえば、私ほど妊婦を叱る医者はほかにいないかもしれません。

診察した際、ゴロゴロ、パクパクしている兆候が見えたときは、めちゃくちゃに叱ります。

私の診察は、医学的な診療のほかに、もっとも大事な母としての心構え、妊娠の哲学的な意味、女がいかなる存在なのか、妊娠・出産の奇跡とその神秘を伝えます。

そして、ビクビクするより、いかに生命力を上げるか、命に満ちた生活をすることの重要性を伝えます。 

妊婦を不安にさせる医者は、自分の不安を妊婦に押しつけているだけです。

そんな医者は、医者の風上にもおけません。

(以上、抜粋転載終わり)


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幸せなお産が世界を変える&バガヴァンの教え(1)

赤ちゃんの時のトラウマと幸福の記憶

私には、赤ちゃんの時の記憶が二つあります。

一つは、ゆりかごの中だと思いますが、目を開けたときに、傍に母親がいなかったのです。

その時の恐怖感は今でも忘れられません。

何分か何時間か分かりませんが、結構長い時間だったと私には感じられました。

しばらくして母親が現れて、安堵したことを昨日のごとく覚えています。

それはかなりのトラウマになったと思います。(最終的には、瞑想のお陰でトラウマは早い段階で取り除かれました。)

もう一つの記憶は、母親から抱っこされながらほっぺたにキスをしてもらった記憶です。

もちろん心地の良い体験だった為によく憶えているのだと思います。

私はプロフィールにも書いた通り、東京の下町で生まれました。

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(昭和30年9月の小松川、小松菜の原産地として有名です。)

場所は両親が同居していた祖母の家で、お産婆さんに取り上げられ産まれました。

昭和20年代、30年代頃までは、それが普通でした。

そして、1964年のオリンピック頃を境に、産婦人科で生まれるのが増加していったようです

今では、自宅でお産婆さんに取り上げられる、というのは珍しくなっています。(我が子は、助産婦さんによる自宅出産です)


人の一生を左右する重大な時期とは by バガヴァン

ところが、現在の日本中に拡がったこの産婦人科での出産が、生まれてくる子供たちの一生を左右する重大な問題を生んでいることはほとんど知られていません。

シュリ・バガヴァンは、人間の一生における極めて重大な時期を、「子供をお腹に宿すという意図を抱いた時から始まり、出産の数時間後までの期間」としています。

(詳細は、高橋恵美さんのサイト「Peace & Silenceバガヴァンの教えシリーズ子育て」をご参照ください。)

男女の性交時の意識状態が、生まれてくる子供の意識状態及び人生を決定する、とまで言っている覚者もいますが、バガヴァンは、それだけでなく、母親の胎内にいる時、そして出生後6時間までが極めて重要である、と語っています。

ですから、母親は妊娠期間を心穏やかに過ごし、出産後も母子共に一緒に過ごすことがとても大切なのです。


母子共に不幸にする産婦人科の大罪

ところが、今回紹介させて頂く『「幸せなお産が」日本を変える』の著者、産婦人科医吉村正氏によると、どうもその正反対のことが現在の産婦人科においては行われているようです。

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(写真、吉村正氏)

妊娠中は、妊婦を不安にさせて、あげく出産後は、母子分離という赤ちゃんにとっては極めて残酷な行為を行っているのです。

ウェブ上で発見したブログ「自閉症の原因(2)」という記事の中で、ユニセフから、1991年12月24日「赤ちゃんにやさしい病院」の第1号として認定された国立岡山病院の山内逸郎医師のこのような言葉を紹介していました。

『現在、世界中の病院・医院などのしていることは、赤ん坊にとって「やさしい」どころか「厳しすぎる」ことが多くて、あまりにも「ひどすぎる」ことで満ち満ちている。』(『未熟児』、p291)


新生児室の中は地獄のよう

また、24年間、新生児室で赤ちゃんを診てきたという石田医師の言葉も紹介しています。

『一般の人は産科の新生児室には入れてもらえないので、なかの様子はおわかりにならないと思いますが、部屋のなかは地獄のようです。

新生児が寂しがって泣き叫んでいます。』(石田勝正著、『生きる原点』)

ブログの著者は、続けて

「人件費を節約するためや人手不足のために、看護婦さんの人数が少ないです。

新生児が泣いても、抱かれることもなく放置されています。

夜間であればなおさら、看護婦さんは少ないです。」

とこのように書いています。

私の体験から言っても、母親、或いはそこに誰もいない、誰かいても見えない、というのは寂しい等という生易しいものではなく、恐怖以外の何物でもありません。

私の場合は、おそらく出生後、何ヶ月も経ってからの体験だと思いますが、出生後、最も大切なのは、この地上に生まれ出てきた後の6時間なのです。


人生の出発点を愛と祝福の下で過ごすことの重要性

この6時間を母親と過ごすことで、おそらく子供は、愛というものを心の最も奥深くに抱いて、この地球に巣立ってゆくことが出来るのではないか。

そしてそのような人は容易に他者に対する愛や共感を育むことができるのではないでしょうか。

ところが、いきなり母親から切り離され、分離感、孤独感、(愛の)欠落感、そして恐怖と共にこの地球に生れ落ちてきたとしたらどうでしょうか?

おそらく、それらがトラウマとなって、人生に影を落としてゆくことは想像に難くありません。

ブログの著者は、自閉症の原因の一つとして、この産婦人科での出産が関係していると見ていますが、この出生時の母子分離は、自閉症だけでなく、近年、世界的な現象として増えた、いじめや虐待、うつ等多くの問題と関係しでいることはまちがいありません。

それでは、この母子分離など現在の日本の産婦人科や医療の問題の本質を鋭く突き、本来あるべき妊娠・出産の姿を教える吉村正著『「幸せなお産が」日本を変える』から以下、抜粋転載させて頂きます。

(以下、抜粋転載開始)

母子分離は言語道断

動物は自分が産んだ子どもが本能的にわかります。

子どもも自分の親がちゃんと見分けられます。

本能で自然に産めば、わかるようになっている。

生まれた赤ちゃんに番号札をつけなければ、自分の子がわからないのは人間だけです。

母子が、手に番号のついた腕輪をはめられている姿を見ると、人間なのに、まるで伝書鳩のようではありませんか。

病院で管理されると、そうなってしまいます。

病院では生まれ落ちると、すぐ親から引き離し、産湯で洗ったり、体重や身長をはかったり、いらんことばかりする。

なぜそんなことをする必要があるのか。

なぜそれを出産直後にやらねばならないのか。私には理解できません。 

親子が初めて対面して、互いに親子と確かめあういちばん大切な時間を、医者たちが取り上げて、だいなしにしてしまう。

動物も、生まれた直後に子どもを取り上げれば、どれが自分の親で、どれが自分の子どもかわからなくなってしまう。

あとからその動物の親子を一緒にしても、子どもを育てようとしません。

人間だって同じです。母子を離してしまうと、親子関係がうまく育ちにくい。

生まれた直後に親から離され、保育器や新生児用のICUで育った低体重児や病気の赤ちゃんが、親元に返されたあと、親から虐待されやすいという説もあります。

お産直後に分離され、親子の絆が築かれる大事な時期を逸していたからだと私は思います。

お産のとき、親子の絆を築く愛情ホルモンが一気に放出されます。

その愛情ホルモンのおかげで、子どもに対する愛着が強まります。

これは最近、科学的に研究されてわかってきたことですが、そんなことがわからない時代から、母親は自分の子どもをひしと抱きしめ、わが子を見て、わが子のにおいをかぎ、わが子の温かさを皮膚で感じ取ることで深い絆を築いてきました。
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それは生命をつないでいくために神が用意した周到な戦略です。

ところが、お産直後に母子を引き離してしまうと、どうなるでしょうか?

赤ちゃんが目の前にいないのですから、怒涛のようなホルモンの嵐はやんでしまいます。

しばらくたってから赤ちゃんを連れてこられても、ホルモンの嵐は終わっているので、頭では自分の子どもだとわかっても、体の深いところで本能的に可愛がる可愛がり方ではない。

だから子育てに義務感が伴ってしまいます。

うちでは生まれたら、すぐ母親に抱かせます。親子を片時も離しません。

そうすると、赤ちゃんが可愛くて可愛くてたまらなくなります。

赤ちゃんに刺激されて母乳も出るようになるので、うちでは全員が母乳です。

ミルクは置いていないから、飲ませようがない。

“ミルクの会社”が怒って、来なくなりました。それでいいのです。

お産に関する神の戦略は完璧です。それを医療はよけいな介入をすることで壊しています。 

母子を分離させることなど、よけいなことの最たるものだと私は思います。


女たちよ、真実を見抜く目を持て

先日、こんな話を耳にしました。

東京のとあるクリニックで自然分娩を目指していた三十代後半の初産の女性の話です。

予定日が六日間遅れただけで、生まれる気配がないということで、当然の流れのように胎盤機能を調べ、それと同時に五時間の陣痛促進剤の点滴を打たれたそうです。

その後、医療介入のフルコースで、結局、帝王切開になってしまったということでした。

自然分娩を志しながら、最も人工的なお産になってしまったということでした。

絶食、点滴、麻酔の副作用のため、頭痛で立ち上がれず、三日経った今も赤ちゃんを胸に抱くことすらできないという話でした。

私のところには、初めてのお産で、不必要な医学的介入をされ、意味のない帝王切開や吸引分娩、鉗子(かんし)分娩に終わってしまった母親たちが、次々とやってきます。

そして、自然分娩でお産をして、本当の「女」、本当の「母」になり、はじめて、いかに自分が不幸な母だったかに、心底気づく。

そんな例を、私は自然分娩にのめり込んでから多数見てきました。 

時代性か、自然分娩を看板にして、患者を集めながら、結局は人工分娩にして、経済的利益を得る医者はゴマンといます。

不幸なお産をして、二回目に私のところに来る女性たちから、前の人工分娩のことを、私は詳しく聞くことができますので、いかに人間の心が悪に満ちているかを知ることになります。 

こんなことを言うと自分だけ善人ぶっていると感ずる人があるでしょうが、そうではありません。

私は、特に女性が好きでたまらないから、女性の本質的な幸せについては、譲れない。自分の身を張っても女に幸せになってほしい。

自然分娩をごり押しするのは、気持ちいいからやるのであって、ワルの心は十分にあると自覚しています。申し訳ない。

私はある意味でワルイ奴ですが、それを穴埋めするために、こんな苦労をして自然分娩に我を忘れて、自分を投入しているのかもしれません。

体はきついし、年をとっているから、そのために死ぬかもしれないけれど、人として、気持ちいいからやっています。

だから、昔の日本人の、とくに「男」の気持ちがわかります。悪い奴だけどいいことができるのが、昔の男でした。

忠臣蔵の四十七士が、つまらん殿様のために、苦労した挙げ句に切腹したりするのは、現代人から見れば、バカらしいことでしょうが、三百年たった今でも四十七士に感動して、テレビドラマに涙するのは、そこに日本人の男の生きざまを感じるからです。

私なら、つまらん男のためには死にません。

死ぬなら女のために死ぬ。私が自然なお産に駆り立てられる根本はここにあります。

いまの日本人は心より金に自分を売り渡してしまいました。

だから、こんな世の中になってしまった。

医者が、自然分娩の気持ちよさに自然のお産をやっているのか、金のためにやっているのか、本当に「自然分娩をめざす女性は、よく見極めてから医者にかかってほしい。

ビー・ケアフル! テイクケア!

頭がいいだけで医者になり、産婦人科の看板を掲げている病院はゴマンとありますぞ! 

ただ、勘違いしてほしくないのは、自然分娩は、医療が介入する管理分娩の対極にあるのではないということです。

また、他のあまたの何々法といわれる選択肢の一つでもない。

本来、女性がいちばん当たり前に享受するものであり、人間のもっとも自然な姿です。

ところが、現代は自然に神を見るのではなく、科学に神を見ています。

科学が正しいと信じる教育を人々の頭に植えつけています。

だからこそ、自然分娩をしたいと言いながら、その一方で科学者である医者の言うことがすべて正しいと受け入れてしまう。

巷にある、形だけの自然分娩を標榜(ひょうぼう)する医者を見抜けないのです。

もちろん、たとえ人工分娩で産んでもお産は感動的なものです。

新しい生命と出会うのですから感動しないわけはありません。

お産はそれくらい素晴らしいものです。

ただ、自然に産んだお産とは深いところで決定的な違いがあります。

古い脳ですべてを解放して、自然に委ねて産むと、めちゃくちゃに幸せで、めちゃくちゃに子どもが可愛い。

それは、無意識の本能的な愛であって、自然のお産を通して自然に母親に湧いてくる。

そのように神は女を創られた。

女性が神の愛を無意識に体現するように創られているということです。

真実のお産とは、そういう世界です。

どうか、喜ぶに満ちた真実のお産をしてほしいと私は切に願います。

(以上、抜粋転載終わり)

(続く)
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プロフィール

三休さん

Author:三休さん
のブログへようこそ!

昭和28年東京都江戸川区  小松川の生まれ

都電の西荒川駅前にあ
った生家には、故赤塚不二
夫さんが下宿していました。

上の写真は、昭和30年5月石森章太郎さんが赤塚さんを訪ねてきた時のもの。

赤塚さんは、その2年後有名なトキワ荘に引越しました。

徒歩数分の石毛肉店には、私と一緒に住んでいた従姉と同じ深川高校に通う五月みどりがいて、この翌年に歌手デビュー。

生家の2軒隣にその数年後、横綱柏戸が引越してきました。

私は、その後両親が近所に建てた家に引越したのですが、3軒隣にラグビー日本代表だったターザン橋本(本名橋本晋一)氏が住んでいて息子が私と同級生。

息子H君はその後早稲田ラグビー部の主将。

私が小中学校時代に通ったラグビースクールで一緒にプレーした新日鉄釜石7連覇の立役者Mr.ラグビーと言われた松尾雄治君とその後早明戦で戦ったのには驚きました。

私も高校でラグビー部に入ったのですが、挫折。結局それが遠因で、精神世界に。

そして今に至るのですが、何が幸いするか分かりません。

もし、そのままラグビーを続けていれば、何がしかの世界で成功したかもしれませんが、失敗の人生を歩んでいた可能性があります。

真の意味での成功者とは、永遠不滅の至福の境地である「悟り」に達した人々のことであり、そこに向かって着実に前進している人々のことを言います。

(「悟り」「真の成功者」に関して詳細は、本ブログ記事「ホイットニーの死をバガヴァンの教えから考察する」等をご参照ください。)

まさに「人間万事塞翁が馬」。

趣味は瞑想です。

1977年から瞑想しています。      
基本的に24時間瞑想しています。
もちろん、座って瞑想するのも大好きです。

意識の内側へ入れば入るほ
ど、より覚醒し、より自由に
なってゆきます。

瞑想をとおして、
この世界のあらゆる楽しみ、
快楽をはるかに凌駕する
時間、空間を超えたこの
現象世界の源である
永遠不滅の純粋意識、
そしてその本質である
絶対的な自由と愛と至福を体験します。

多くの方にこの事実を体験を通
して知って頂きたいと思ってい
ます。

覚醒剤もドラッグもいりません! 

ただし、瞑想には、効果的で正しいやり方があります。

正しい角度で飛び込み、正しい泳ぎ方を身につけることで、スムースに海中深くに潜ることが出来ます。

それと同様で、効果的に効率よく、マインド(心)の内側深くに入り、究極的にはマインドを超越する方法が、正しい瞑想法です。

古来より覚者方より様々な瞑想法が、伝えられております。

マインド(心)は、永遠でもなく、真我(本当の私)ではありません。

その正体は思考であり、常に変化して止まず、幻影です。

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